中央アジア散歩 2011年夏学期 全学自由研究ゼミナール

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中央アジアと高麗人

公開日:2011年8月29日

投稿者:uzstudent2011s

1.高麗人の歴史と現在

現在、海外に約55万人の高麗人がいると報告されており、その大体が中央アジアの国々に住んでいる。ここで高麗人とはどのような人のことであるか。高麗人とは、旧ソビエト連邦の領内に住み、現在はCISの国籍を持つ朝鮮民族の人々のことであり、もとの居住地は朝鮮と境を接した沿海州である。もともと沿海州に住んでいた高麗人は1930年代後半から第2次世界大戦にかけて中央アジアに追放され、現在の主な居住地はウズベキスタンとカザフスタンである。

それでは、高麗人はなぜ沿海州から何千キロも離れた中央アジアに行ったのだろうか。そこには高麗人の強制移住の歴史がある。19世紀以降、李氏朝鮮北部から国境を越えて沿海州に定着しながら高麗人集団が形成された。その後、1910年に日本帝国と大韓帝国が合併され、1924年にはロシアでソビエト連邦が成立された。日本とソ連は対立関係におり、沿海州に定着していた人々は日本と関係がないにもかかわらず、スターリンの政策によって1937年中央アジアに強制移住させられることになってしまった。

高麗人の強制移住は非常に厳しいものであった。18万人の人が40日間6000kmに達する距離を移住させられたが、この遠い距離を高麗人は貨物列車に荷物のように乗せられて移住させられた。貨物列車であっただけに、列車にはトイレも、お水もなく移住過程で多くの人が病気で亡くなってしまった。また、トイレがなかったため列車が止まったときに線路におりて用便をみる人もいたが、列車が出発するときそれに気がつかず、線路に挟まって死んでしまった人もいた。このように非常に劣悪な環境を生き残った高麗人は人が住めなくて離れた土地に降りさせられた。そこには農場も、家もなにもなかったが、高麗人はここでまた頑張ってファン・マングム農場やキム・ビョンヒァ農場など農業に成功した例がたくさんある。

このように何もない状況で成功してきた高麗人はその能力や努力が認められ、社会での地位も高くなり、自ら中央アジアを自分の第2祖国に思うようになった。しかし1991年ソ連解体以降、民族政策で生活基盤が崩壊し、沿海州に再移住して現在約5万人が沿海州に住んでいる。

2.高麗人社会とネットワーク

高麗人は自分たちのネットワークはある程度持っているが、まだいろいろな問題が残っている。まず、協会の代表性および組織間の葛藤が依然と存在する。全露高麗人連合会、民族文化自治会は近年韓国からの支援をもらっているが、全露高麗人連合会に傾いている傾向がある。韓国の支援が葛藤の原因となってはいけないため、これから体系的な研究が必要だと思われる。2番目の問題として、主要大都市が情報を独占しているという問題もある。韓国大使館が設置されている大都市ではないと、支援情報が手に入りにくいため、大使館を通じなくても情報が得られるよう高麗人協会の活用が必要である。3番目の問題は言語の問題である。高麗人にとって韓国語の重要度は第3外国語程度であって、まずは現地語、つぎは英語またはロシア語であって、その次が韓国語である。韓国語を勉強している人は中央アジアに進出している韓国企業で働きたいと思う人が選択的にやっているだけで、今のところ韓国語は高麗人にとってそれほとインセンティブのある言語ではない。ただ、将来韓国人と高麗人の交流がより活発になることが望ましいと考えると、韓国語の教育はネットワーク形成において重要な問題であろう。最後に整っていないインターネット環境の問題がある。若者のなかではインターネットの使用率が増えているが、高麗人とのネットワークのため使っているわけでなく、全体としてみたコンピュータの普及率はそれほど高くないため、まだいろいろな問題がある。また、ここでもまた言語が問題となって、韓国語とロシア語の両方が必要という問題がある。

このようにまださまざまな問題があるが、韓国と高麗人をつなぐにはネットワークの役割が重要になるため、より効率的なネットワークを構築するための努力が必要だろう。その具体的な方案としては、人的ネットワークを作ってシンクタンクを構築し、必要な人材を勧告と現地の適材適所に配置すること、韓国関連の多様なプログラムを企画して文化院や教育院の機能を強し、韓国訪問実現すること、インターネットの利点を十分生かして長いスパンで有効な手段に作ることなどが考えられる。

(文科一類二年 キム・ヘジン)

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