中央アジア散歩 2011年夏学期 全学自由研究ゼミナール

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ウズベキスタンの結婚式

公開日:2011年8月26日

投稿者:uzstudent2011s

前回はウズベキスタンの「今」を象徴するウズベキスタン・ポップスを紹介したので、今回はウズベキスタンの伝統儀式の一つである結婚式について紹介したいと思う。結婚式ももちろん音楽と舞踊をこよなく愛するウズベキスタン人がよく表れている儀式だ。

ウズベキスタンの伝統的な結婚式は人生の一大イベントであり、親族がたくさん集まって行われる。田舎では今もこうした伝統的な結婚式が多く行われており、ホテルでの結婚式が多くなってきている都会でも内容においてはウズベキスタンの伝統を色濃く見ることができる。

伝統的な結婚式ではまずホトハ・トゥイと呼ばれる婚約の儀式が親の賛成と祝福によって段階ごとに行われる。成年に達した男性の親は息子にあう女性を探し始める。女性が見つかると、親とおばさんたちは女性の家に行き、息子にあう女性かどうかを判断する。あうと判断されれば、仲介人が選ばれ、仲介人は婚約日を発表、女性の家に女友達や親せき、マハッラの長老たちが集合、儀式を執り行う。ここでPATIRと呼ばれるパンを切り分けることで婚約が確定する。終わりに仲買人は結婚式の日付を決定、仲買の皆には女性の親からレピョーシカと菓子がくばられる。

結婚式の日の一大イベントといえば何と言っても朝プロフだ。朝の5時から200名ほどの客人にプロフを振る舞う。これは、花婿から送られた米、油、にんじん、羊の肉を用いて花嫁の家で行われる。朝プロフは男だけの行事で、食べるのも男なら作るのも男である。伝統的な歌を歌う歌手なども呼ばれて食事会が催される。

朝プロフが終わると花婿と花嫁は、結婚届けを提出しに行く。この後、レストランに集合してまた歌を聴きながらの食事会が催されることもある。

夜には盛大な披露宴が催される。これはとても大きな規模のもので、また歌手を呼んで食べ、歌い、踊る宴会の時間が続く。このとき呼ばれる歌手は国でも有名な歌手であることが多く、紅白歌合戦のような盛大な結婚式が行われる。これはウズベキスタンの結婚式の大きな特徴であろう。このダンスの時間には祝儀のお札も飛び交う。

披露宴が終わると新郎は新婦を連れて帰る。そして、翌日の朝には新婦の挨拶という行事がある。花婿は花婿の友人によって連れて行かれ、花嫁は伝統的なショールをかぶって挨拶に来るみなに挨拶を返す。

これが終わると結婚の二日後にはまた、新婦の両親による女性だけのパーティーが開かれる。これはお互いのことをよく知るために行われるのだそうだ。

こうしたウズベキスタンの結婚式には200~400人の人が集まり、楽しいお祭り騒ぎが続くのである。

このように、ウズベキスタンの結婚式は、もちろん個人の祝いの席であるが、それと同時に家族・親族の祝いとしての機能も果たしているといえるだろう。それはコミュニティの中に新しく新婦という他からの人員が増えるお祝いの席であり、また新郎のコミュニティと新婦のコミュニティが新しく関係をもつお祝いの席でもあるのだ。結婚式には大勢の人が呼ばれるし、朝プロフなど結婚祝いの準備は家族・親族によって行われる。新婚夫婦が自分たちで全てをセッティングし、お祝いに人を招く欧米流の結婚式とは趣向も異なったものになる。

欧米では「私」とは独立した個人としての私であるが、それに対してウズベキスタンでは「私」とはコミュニティの中におけるあるいはコミュニティ同士の関係性における「私」であるのだ。こうした共同体への考え方は一昔前の日本にも似ているだろう。

ウズベキスタンでは近年マハッラの見直しが進んでいることもあり、政府を中心にこうした共同体の働きをより強めようとする働きがあるようだ。一方で若者を中心に生活はどんどんと欧米化してきており、結婚式もホテルで行われることが多く、今は親同士が決めた結婚ではなくて男女が自分たちで知り合って結婚ということも都会ではよくある。

生活スタイルが変わっていく中でいかに家族・親族、またローカルなコミュニティを維持していくのかは大きな課題であるだろう。生活の変化に合わせて個人を個人として規定していくようになれば、大きな自由が生まれ対等な立場の個人が出現する。一方で、そうした変化によりローカルコミュニティは消失し人々は存在のよりどころを失ってしまう。逆に共同体の力を強めていくことは生活基盤としての地域社会を提供するが、共同体が過度に機能すれば個人の抑圧やコミュニティ間の対立起こる可能性がある。

そうした中でこれからウズベキスタンがウズベキスタンとしてあるために作り上げていくべきコミュニティと個人との関係性の匙加減は、伝統かモダンかという問題とも相まって大きな影響を及ぼしているのではないかと思う。

(2年文科二類 鈴木)

ウズベキスタンポップス

公開日:2011年8月26日

投稿者:uzstudent2011s

日本においてはウズベキスタンの認知度はまだまだ低く、砂漠、シルクロード、サマルカンド…といったイメージがある程度なので、伝統音楽ならばいざ知らずウズベキスタンポップスといえばその認知度はさらに低い。しかし、ウズベキスタンポップスはなかなか味のあるもので日本にもコアなファンは少数ではあるが存在するし、大きなCDショップでは片隅にほんの少しだけだが紹介されている。音楽と踊りをこよなく愛するウズベキスタンの人々にとってポップスもまた生活に大きな比重をしめているようで、みなMP3で好きな音楽を聴いているらしい。

文化を考えるとき、伝統と最先端の中で何を自らの文化としてこれから押し出していくのか、というのはウズベキスタンのみならず日本においても重要な論点だ。そこで今回はこのポップスに焦点を当てて考えてみたい。

ウズベキスタンポップスはウズベク音楽の伝統を感じさせるものでその独特のこぶしの利かせ方は欧米や日本ではなかなかお目にかかれないようなものが多い。曲の終りに長い絶叫がはいるものが多いし、前奏や間奏で際立つ弦楽器の旋律はまさに中央アジアを感じさせる。とはいえ、欧米でよくあるポップスの一種であることは確かで種類もラップのようなものからバラードのようなものまで様々ある。またプロモーションビデオなどでは最先端のもの、今ウズベクの人々に「かっこいい」と思われているものを少しだけ感じ取ることができる。かなり露出度の高い衣装と、曲によって全く雰囲気を変える化粧ははじめて見た私にとっては驚きであった。プロモーションビデオはクオリティの高いものが多く、日本で見られるものとほぼ同様だが、ストーリーもののコミカルな(?)ストーリー設定や夢を見ていただけだったというパターンが多いことなどは特徴といえるかもしれない。また一方で、伝統のアトラス模様の衣装でタシケントやサマルカンドなどの有名観光地で歌うプロモーションビデオも少数ではあるが存在し観光ビデオとしても有効そうで興味深い。

今ウズベキスタンで人気の歌手は、女性歌手ではRAYHON,SHAHZODA,SOGDIANA,LOLA,そして忘れてはいけないYULDUZなど、男性歌手ではSHAHZOD,BOJALAR,OYBEKなどだ。少しだけ取り上げて見るとYULDUZはウズベキスタン音楽界のまさに大御所で、日本人でも知っている人が多い、数少ないウズベク歌手の1人だと思われる。彼女は政府とも深いつながりがあったようで、国の大きなイベントなどでよく歌っていたのだが、2005年政府と関係が悪化して、今はトルコで活躍している。また、SOGDIANAはウズベキスタン生まれだがはじめはロシアで歌手として成功し、その後ウズベキスタンに逆輸入された歌手だ。SHAHZODAは美貌の歌手でロシア進出を進めているがそちらの方はあまりうまくは進んでいないそうだ。

こうして見てみると、ポップスにおけるウズベキスタンと周囲の国々との関係はなかなか興味深いものがある。ウズベキスタンにおいて、隣国のロシア、トルコはポップスに限らず最先端をいくお隣さんのようで、ファッションなどをみてみてもロシア製、トルコ製の洋服は少し高めでおしゃれ、と捉えられるらしい。音楽についても似たようなものがあって、ウズベキスタンは旧ソ連圏でロシア語が広く話されていることも手伝い、ウズベク歌手にとってロシアへの進出というのは一つの夢であるようだ。日本人歌手が欧米圏への進出を目指すのと似ているのだと思う。

一方でウズベク歌手のロシアへのあこがれは第三国の立場で見ると大変に興味深いものがある。歴史的に見てみると、ウズベキスタンをはじめとする中央アジアの国々は19世紀にソ連の支配下にはいった。ソ連以前には民族アイデンティティよりもムスリム・アイデンティティあるいはトゥルク・アイデンティティの方が強かった中央アジアの国々はその支配のもとで民族としてのアイデンティティを確立していった。ソ連の民族政策というのはその支配者ごとに変わる一貫性のないものであったが、それが現在の中央アジアの国々の民族アイデンティティに影響を与えているという側面も大きい。音楽を見てみると、この時代に弾圧された地域固有の音楽もあれば、逆に音楽学校が開かれて重視されるようになった音楽もある。また後者においては西洋音楽の枠組みで編曲や楽器改良がなされたりとソ連による取捨選択が反映されている。

1991年にソ連は解体し、中央アジアの国々は独立を遂げていった。こうして生まれた新しい中央アジア国家は各々その民族意識を強調に力を入れることとなった。そうしてその路線は現在にまで引き継がれているわけだが、その中でウズベキスタンのスター達があるいは若者たちが、ロシアに憧れを抱きロシア進出を望むという「ソ連圏人」としての行動をとるのは皮肉な様で大変に興味深い。と同時に、「欧米文化圏」であることを誇りにする私たち日本人の姿も皮肉として浮かび上がってくるように思う。

(二年文科二類 鈴木絢子)

文献『記憶の中のソ連―中央アジアの人々の生きた社会主義時代―』

公開日:2011年8月24日

投稿者:uzstudent2011s

人間は「未知」なものに対して不思議な魅力を感じるものである。私が中央アジアに興味を持ったのも、中央アジアに自分の知らない世界が広がっているのではないか?中央アジアには自分の知らない何かがあるのではないか?と期待したからである。そうしたことでこのゼミに入った私は、文献を中心として自分なりにウズベキスタンについて調べてきた。

しかし文献にはどうしても、統計データが羅列されていてリアルさが欠けているものや、ある一個人から見た、ある種の「偏見」が入ったものも多い。そうした中で現地の人々のリアルな声を収集するためにウズベキスタンで社会調査を行い、まとめた本がある。それが「記憶の中のソ連―中央アジアの人々の生きた社会主義時代―」(ティムール・ダダバエフ、筑波大学出版会、2010)である。今回はこの本を紹介してみようと思う。

この本の中に収められている調査は、2006年以降にウズベキスタンで行われた、現地に住む人々に対して行われた調査である。調査項目は多岐に渡る。調査においては、なるべく多くのことを聞き出すためにインタビュー方法や質問票に工夫を施している。また著者自身がウズベキスタンの出身であることから、調査に主観が入り、偏りが生じないように尽力している。

調査では様々なことが明らかになるのだが、この中で私が特に興味が惹かれたのが、ウズベキスタンの人々が意外と旧ソ連の時代に対してノスタルジーを感じている、という調査結果である。彼らの中には、かつて存在していた旧ソ連という大国の存在が消失したことに対して悲しみ、そして現在の生活状況と比較して、旧ソ連の時代は豊かな暮らしができていたというノスタルジーを感じる人がいるのである。

こうした現象を目にすると、歴史における「記憶」の重要性と危うさを感じずにはいられない。歴史においてこうした「オーラルヒストリー」的なものを残していくことは重要である。しかし周知の通り、当時のウズベキスタンには他の社会主義国と同様、制限や弾圧、物資不足などの問題が存在していた。にもかかわらず、そうした事実はこのインタビューからは伺いにくい。つまり、彼らは今の状況を悲観しているが為に、かつての旧ソ連の時代を必要以上に美化している可能性が高いのである。

さらにこうした事実から伺えるのは、社会主義国がその負の側面を如何に国民の目に触れないようにしていたか、ということであろう。しかしその実態がどうであったかは、資本主義国に生きる我々には非常に理解しにくい。(私も指摘されるまで気付かなかった)現地に行ってこうした事実の一端でも知ることができたら、と思った次第である。

日本ではなかなかない貴重な調査をまとめた本であり、ウズベキスタンに行く前に一読する価値はあるだろう。是非目を通すことをおすすめする。

(文責:文科二類二年 西田)

 

映画『白い汽船』

公開日:2011年7月4日

投稿者:uzstudent2011s

前回書いた通り、アテネフランセでのソ連映画特集で観たもう1本の映画を紹介したいと思う。

1976年にキルギスで制作された作品で、タイトルは『白い汽船』。監督はボロトベク・シャムシエフという人で、キルギスを代表する作家だというチンギス・アイマートフの同名の小説が原作で、そのアイマートフが脚本も担当している。

主人公は、街からはすこし離れたキルギスの山のなかに住む7歳の少年。山といってもこのあいだの『灰色の狼』とはまったく違う、森にかこまれ小さな川が家のちかくを流れるというような牧歌的な風景が広がる。少年は働きにでたきり戻ってこない両親の帰りを待ちながら、やさしい姉や祖父に意地悪な義理の祖母、そして叔母夫婦などと山で暮らしている。そんな少年の、小学校入学前後の日々を描いた作品である。

本当に素晴らしい映画だった。名作といっていいと思う。映像、色彩の感覚もとてもよく、現実と想像・夢との織りまぜ方も実に巧み。主人公の少年はもちろん、そのまわりの人物の描き方もよかった。

主人公の少年は無邪気で奔放、とても想像力が豊かだ。家のまわりの野原を駆けまわったり川で泳いだりして遊び、手伝いをさぼって遊んでいたのを厳しい義理の祖母にとがめられれば、手に持っていた双眼鏡に「双眼鏡、おまえもいけないぞ。おまえが誘ったんだから」と話しかけたりする。少年が祖父に学校へ通学するカバンを買ってもらってはしゃぎまわるところに始まり、はじめはそんな明るい少年の様子が中心に描かれるが、話が進んでいくとだんだんと少年の悩やむ様子や心の揺れうごき、少年のまわりで起こる様々な揉め事などが見えてくる。遊んでいた最中にお父さんに会いたいといってふと涙をながす少年(もっとも、子どもの常でつぎの瞬間にはまた遊びに夢中になるのだが)、子どもができないことへの怒りから叔母に暴力をふるう叔父と、そのことに心を痛める祖父と少年。義理の祖母は叔父と共謀して、自分の娘である叔母を離婚させて叔父と少年の姉を結婚させることを企み、その結果少年をいつもやさしく世話していた姉は街へ逃げてしまう。そして、やさしかった祖父が権力者の叔父(祖父からすれば娘婿)と衝突して仕事を失ってしまい、少年は大きなショックをうける。悪人の叔父と義理の祖母によってやさしい祖父や姉が苦しめられるという単純な構図ではあるが、叔父も仕事上かつてほどの力がなくなったことや子どもができないことに苦しんでいたりなど、人物造形が巧みで描き方もうまい。

映像的にも、みるべきところがたくさんあった。木々と草原の緑や川の水、青空と太陽の明るいイメージ、夜や物陰の暗闇などの暗いイメージと話にあわせた色彩の使いわけがなされ、それぞれの場面でみても映像としてとてもきれいなものが多かった。途中で祖父が語る民間伝承として「母鹿の伝説」というものが挿入されたが、この場面では赤や白をうまく使って民話の幻想的・神秘的で少し残酷な雰囲気をうまく表現した映像となっていて素晴らしかった。また、双眼鏡を通してみた湖に浮かぶ白い汽船(タイトルの元となったモチーフである)、水の中を潜る少年など様々な「装置」をうまく使った映像もみられた。少年が自分が魚になる想像をすれば少年が魚になってまわりの家族などに囲まれて泳ぐ映像が挿入されるなど、現実と少年の空想の混ぜ方も巧みで、ラストは様々な悩み事に苦しんだ少年が熱にうかされ、現実とその空想の境目があいまいになっていくような映像で終わる。

繰りかえしになるが、本当によくできた素晴らしい作品だった。子どもの想像力をあつかった映画の名作は、アルベール・ラモレスの『赤い風船』やビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』など多数あるが、そんな名作の1本にこの『白い汽船』も加えていいのではないかとさえ思う。タルコフスキーやパラジャーノフの作品などソ連ではかなり高いレベルの映画がつくられていたというのはよく言われることだが、ソ連のなかでも中央アジアにここまで良い作品があったというのはまったく知らなかったので今回かなり驚かされた。しかし、これだけ絶賛してきたこの映画『白い汽船』だが、今回はたまたま特集で上映ものの、日本ではDVDもビデオも発売されておらず、普通には観ることができない。もっと評価され多くの人に観られるべき作品だと思うので、いつかDVD・BD化されることを切に願う。そして、またこの作品に限らず現代のものも含めて中央アジア映画がもっと日本で広く観られるようになり、日本人の中央アジアへの関心も高まればと思う。

(文:文科二類二年 川名)

日本における中央アジア映画、そして映画『灰色の狼』

公開日:2011年6月24日

投稿者:uzstudent2011s

中央アジアの映画というのはなかなか日本ではお目にかかれない。日本版のDVDが販売されている作品は数えるほどしかなく、DVDがすでに廃盤になってしまったものやVHSでのみかつて販売されていたものを含めてもごくわずかしかない。劇場での上映についても、普通に日本の配給会社が配給契約をむすんで劇場公開されるということは少なく、映画祭(東京国際映画祭や東京フィルメックス、アジアフォーカス福岡国際映画祭など)やその他なんらかの特別上映企画(各国大使館や国際交流基金の協力で中央アジア映画に的を絞った特集上映も何度か行われている)など限定的なかたちでのみ上映されるということが多い。

しかし、中央アジアで全然映画がつくられていないのかというと、決してそうではない。ソ連時代には、各共和国ごとに映画会社がつくられ、国家の奨励の下で盛んに映画制作が行われていた。そして、ソ連崩壊、各国の独立の後も(政情の変化などで映画産業が一時的に衰退した地域もあったが)映画制作はつづけられており、カンヌやベルリンといった国際映画祭に出品されて国際的な評価を得る作品、監督も多数あらわれている。

このように、質、量ともにけっして低いレベルではないわりに日本ではなかなか観られる機会の少ない中央アジアの映画だが、6月17日から6月30日までアテネフランセ文化センターでおこなわれている「ソビエト映画アーカイブス スペシャル」(http://www.athenee.net/culturalcenter/program/s/ss.html)という特別上映企画では、中央アジア映画の中でも特に観られる機会の少ないソ連時代の作品が数作上映された。その上映された数作の中から、ここでは『灰色の狼』という作品について書きたいと思う。

『灰色の狼』は1973年にキルギスで制作された作品で、監督の名はトロムーシュ・オケーエフ。キルギスの映画だが、カザフスタンの作家アウエーゾフの短編小説が原作になっているという。

舞台は荒涼とした山あいの地域、主人公は日本でいうところの小学校低学年くらいの年齢の少年で、両親とは幼くして死に別れ、伯父と祖母に育てられている。物語は伯父が仕留め残した狼の子どもを少年が伯父の反対を押しきって家に引きとり育てはじめるところから始まり、そこから主人公と狼との関係や主人公と周囲の人々の暮らしの様子が描かれていく。

一言でいえば、厳しいリアリズムの映画である。夏は乾燥し、冬は冷えこみ地面が雪におおわれるという過酷な自然環境。荒れた土地で植物が育たないため人々は羊の放牧で暮らしているが、狼の群れに襲撃をうけて羊を食い荒らされるということもたびたび起こる。主人公の少年が愛情をこめて育てていた狼も映画の後半には脱走し、クライマックスでは戻ってきたその狼が少年を襲って瀕死の状態に追いこみ、けっして狼は人にはなれないのだという伯父の厳しい言葉の通りになる。この映画で描かれる人間と自然との関係は、このようにとても厳しい。しかし、それだけでなく、人間という生きもの自体や人間同士の関係というものについても厳しいまなざしが貫かれる。まず、伯父の主人公の少年に対する態度はとても厳しい。これは子どものいない伯父が少年を家の跡継ぎとして強い男に育てたいということのなのだが、伯父の不器用さから二人の関係は主人公にとっても伯父にとってもあまり幸せとはいえないものになってしまう。また、伯父は生活に苦しさから地主の羊を盗むという罪をおかし、自分をいっそう追いつめる結果に招く。少年に対してやさしかった祖母は次第に病気で弱っていき、少年が家出をしたときに助けてくれた伯父の友人も政治犯として追われており、ラストシーンは瀕死の少年を看病していた彼が警察に連れていかれる場面だった。

ズームイン・ズームアウト、パンやカメラの移動、カット割りといった撮影技術は非常にシンプルで特に凝った技巧は使われていなかったが、リアリズムに徹した描き方をするこの映画ではむしろそれでよかったと思えるふうでもあった。映画としての質は同時代の他の地域、ソ連以外の地域とくらべても遜色はない、いやむしろ中央アジアの風土をうまく描いた佳作、良作の類に入る作品と言っていいのではないかと思う。

さて、『灰色の狼』についての感想は以上だが、今回のこのアテネフランセの特集からはもう1本『白い汽船』という作品(これもキルギスの作品)についても紹介したいと思うので、次回はその作品について書きたいと思う。

(文:文科二類二年 川名)