中央アジア散歩 2011年夏学期 全学自由研究ゼミナール

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駒場祭で展示を行いました。

公開日:2011年12月9日

投稿者:間下 大樹志

みなさまお久しぶりです。
前の投稿がヒヴァの旅行記で、そこで投稿が途絶えたため14日から合流した後発組には
僕たちの安否を心配させてしまったようですが、ヒヴァを出たあとネット環境が無かったのです(笑)

さて、僕を含め2年生は旅行のあと進振りという学生生活上の大きな局面を乗り越えまして
色々な学部へ進学が内定しました。
そうなるとなかなか前期教養課程の授業でゼミ生全てが顔を合わせることもなくなり
それに伴ってこのブログの更新も滞っておりました。

さて,先日11月25日~11月27日に駒場キャンパスにおいて駒場祭が開催されました。
僕達全学自由研究ゼミナール「中央アジア散歩」(通称”UZゼミ”)もウズベキスタンを紹介する展示を行いました。
タイトルは「中央アジアは友達…怖くない!!」です。
少々ふざけたタイトルでお叱りをうけそうですが…笑
やはり日本ではウズベキスタンという国はなじみが薄いだろうと言うことで
今回はウズベキスタンの歴史や文化などについて、とても深く説明とすることはせず
写真にポップで説明をするという展示を主として、まずは眺めてウズベキスタンという国を
知って頂き、興味を持ってもらった後に説明員としてその場にいるゼミ生が説明するという形を取りました。
また、今回駐日ウズベキスタン大使館のご協力により、現地の工芸品やスザニ、アトラス模様の布、そして民族衣装
をお借りして、展示しました。
(民族衣装については説明員とわかりやすいようにゼミ生が着用しました。)

最終日にはウズベキスタンテレビの取材カメラが来場し、
僕たちの指導教員である岡田先生をはじめ、ゼミ生の何人かがインタビューに答えました。
この様子はウズベキスタン国内で放送される予定です。
もしウズベキスタンからこのブログをご覧の方がいらっしゃいましたら是非ご覧下さい!!

感想ノートを用意しておりましたが、展示が終わってみると
「ウズベキスタンという国は全く知らなかったが、行ってみたくなった!」というご感想がとても多く
我々としては展示の目的を達成できたかな、という気持ちでおります。

(文・写真:理科二類二年 間下)

ウズベキスタンの食文化(後編)

公開日:2011年9月5日

投稿者:uzstudent2011s

後編になります。

「ナン」「チャイ」


続いて、「ナン」です。

(左:ウズベキスタンのナン 右:インド料理で有名なナン)


 

 

 

 

 
「ナンなら知ってるよ〜」という方も多いのではないでしょうか。インド料理で食べたことあるから知っているという方、ウズベキスタンのナンは都内インドカレー店で出てくるお馴染みの「ナン」とは少し異なります。丸く焼かれたものが多く、乾燥地域のため、保存食としても用いられています。湿気の多い日本で放置していたらすぐにカビてしまいますね。少し蛇足になりますが、ウズベキスタンは乾燥した気候を生かして、ナン他、ドライフルーツなどの保存食が親しまれています。メロンのドライフルーツなどが有名なようで、実際授で食べてみましたが、噛んでいるとじわじわとメロンの味がしみ出てきます。ナンに戻ります。外観の特徴としてウズベキスタン東部は分厚く見た目も綺麗なナンが多いのですが、西に行くに連れて、薄く平になっていきます。サマルカンド地方のナンがおいしいと言われています。プロフと同じく、地方ごとの違いが楽しめる料理ですね。

最後に「チャイ」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本のインド料理ブームによって、「チャイ」についても相当有名になっているのではないでしょうか。チャイ=お茶 という認識で大丈夫です。油っぽい料理が多いウズベキスタン料理ですが、そんな食事に必ずといって言いほどついてくるのがこの「チャイ」です。急須にお茶碗という日本らしい食器が一般的です。食事の際にはブラック(紅茶に近い)かグリーン(緑茶に近い)から選べる事が多い。インド料理などで出てくるチャイのようにミルクが入ったというものではなく、

 

福井の食文化についての報告は以上になります。

文献が非常に少なく(学術論文についてはさらなりですが)、現地でのリサーリが大変楽しみです。

以下、所感です。

ほとんどの日本人が「ウズベキスタン?どこそれ?」というのが現状だと思います。実際自分自身もこの授業を取る以前はあまり中央アジアに対する知識はありませんでした。授業では食文化を中心に(間下君と二人だけで…)調べてきましたが、印象としては、思っていた以上に日本に近い部分を持つ国だということです。きっと中国に近いと言った方が適切なのでしょうが。うどん(ラグマン)にチャーハン(プロフ)、緑茶(チャイ)に串焼き(シャシリク)など、日本人に馴染みやすい料理が多いようです。けれども、経済的、人的交流は非常に乏しい。比較的近い場所にあるトルコに行ってきたという人は多いですが、ウズベキスタンに行ってきたという人はあまり見かけません。ウズベキスタンはウランや石油など資源が豊富です。話によると、ウズベキスタンには中国、韓国の人が非常に多いようです。けれども日本人は非常に少ない。アフリカなどの資源のある国でも同じような現象が起きてるのは、有名ですね。単純に同様な状態であると決める事はできないでしょうが、ウズベキスタンと日本の関係を見る事は「日本の外交」を再考する一つのアプローチに成り得るのではないでしょうか。今回の研修では、ウズベキスタンと日本の関係強化についてまず考え、そこから更に一般化できる何かを考えることができたら有意義なものになるのではないかと考えています。余談になりますが、ここ一週間ほど沖縄に旅行に行っていました。勿論、同じ日本人なのですが、気質も、食文化も東京と大きなギャップを感じました。特に食に関しては、山羊、イルカ肉、豚足、海蛇、油みそなど、食べ慣れないものに多く出会いました(イルカを除いて非常に美味しかったです)。ウズベキスタンは陸続きなので、日本ほど地方ごとの差異があるとは思えませんが、上でも書いたように、こうした同国内での食文化(にとどまらずできれば様々な文化)の差異には是非とも注目していきたいと思っています。

文責 文科二類二年 福井康介

ウズベキスタンの食文化(前編)

公開日:2011年9月4日

投稿者:uzstudent2011s

どうも、遅ればせながら食文化担当の福井です。

ウズベキスタンで有名な料理をピックアップして紹介したいと思います。

「プロフ」「ラグマン」

まずは「プロフ」について書きたいと思います。

(左:プロフ 右:カザンで炒められているプロフ)


「プロフ」は、お祝いの席などで出る米料理で「カザン」と呼ばれる特殊な鍋で作られます。「カザン」は家庭用の小さなものから、数百人用の大きなものまで様々な大きさのものがあります。「プロフ」で米料理っていえば、みなさんご存知、あの料理名に似てるなと思った方もいるのではないでしょうか。そう、「ピラフ」です。プロフもピラフも似たような料理で、トルコではピラフ、ウズベキスタンではプロフ、ウイグル地方ではポロなどと呼ばれるようです。調理方法としては、カザンにたっぷり綿花油を入れ、お米、羊肉、にんじん、たまねぎなどをじっくり炒めるという非常にシンプルなものです。地方によって、赤いにんじんを使う地域や、黄色のにんじんを使う地域、またその両方を使う地域などがあり、同じ料理であってもその見た目は微妙に異なります。地域による見た目の違いには、盛りつけ方も影響しています。具と米をチャーハンのように混ぜてしまう地方や、米の上に炒めた野菜を盛りつける地方など、プロフを食べているだけでもその地域地域の変化を楽しめるのではないかと思います。街中でプロフを食べる場合の注意点として、なるべくその日の早い時間帯に食べるということがあります。先ほど書いたように、プロフはたっぷり鍋に油を注いで作ります。ということは、午後になると、下の方にある油に浸かったようなプロフを食べることになり、日本食を食べ慣れている日本人には少々辛いものがあるようです。

続いては、ウズベキスタンに行った日本人に大人気の「ラグマン」です。

(左:ラグマン 右:日本の肉うどん)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先に書いた「プロフ」と違い、「ラグマン」とだけ聞くと、何のことやらさっぱり分からない方も多いのではないでしょうか。ラグマン(ラグメンと呼ばれることも)は、日本の肉うどんによく似た麺料理で、讃岐うどんのようなコシのある麺が特徴です。ここでも肉としては、羊肉が主に用いられます。見た目も味も日本人が抵抗を受けない仕上がりになっているのが人気の要因ではないしょうか。内地に行くと、どんぶりのようなお椀で汁に浸ったラグマンもあるため、さらに肉うどんに似た様相を呈してきます。詳しい調理方法や材料については、このブログの初期に書いた記事を参考にしていただければと思います。

文科二類二年 福井康介

ウズベキスタンの経済体制に関する小考

公開日:2011年9月2日

投稿者:uzstudent2011s

前回まではブックレポートや、ウズベキスタンでの日本紹介の為のFWについて書いた。しかし私のブログ記事ではまだウズベキスタン自体について記していなかった。そこで今回はウズベキスタンの経済について記して見ようと思う。

ウズベキスタンの基本情報を述べると、人口は2600万人でCIS諸国の中で最大の人口を誇っている。産業としては、特にソ連時代から綿花産業に代表される軽工業が盛んである。

ソ連崩壊後、多くの国が急進的な経済改革を行ったことで多くの国で混乱が生じた中、ウズベキスタンのカリモフ大統領は共産主義体制から資本主義体制への「漸進主義」を掲げ、他のCIS諸国とは異なる独自路線を歩んできた。この政策の中では、共産主義体制から資本主義体制への緩やかな移行が図られた。例えば、他のCIS諸国が経済的に混乱する中、ウズベキスタンは比較的堅調な経済を維持していた。例えば、ソ連崩壊後のGDP堅調は比較的堅調であったし、CIS諸国の中で大きな影響を及ぼしているルーブルの暴落(ルーブル危機)が起きた時にも、ウズベキスタンへの影響は限定的であった。

また当局による経済介入は貿易の抑制につながったため、国内産業の保護が実現した。具体的には、ウズベキスタンにおいて農業は貿易抑制による恩恵を受けた。

しかしこうした状況にも近年、問題が起きていることも事実である。ウズベキスタンとる漸進主義が、ある種の限界を示しているということだろう。では一体、どのような点で漸進主義の限界が現れているのだろうか?

その一例として挙げられるのが、国と企業の関係である。政府は漸進的に資本主義的な市場へ移行する方策として、企業の管理システムの変更や、所有法に代表されるような、

政府は資本主義的な市場へ移行する方策として、管理システムの変更、「所有法」に代表される私有化促進の法体系、価格自由化などの改革を行った。

しかしながら実際は、様々なところで資本主義市場に移行したとは言えない側面がある。例えば、不当な価格付けを防ぐとの名目で政府が市場介入を行ったり、政府が規制を働かせる事によって事実上貿易を制限したりしている。また、株式会社化が未完了であるなど、まだまだかなりの、国による統制が存在していると言える。

また漸進主義の弊害は、金融部門においても存在している。ウズベキスタンでは長期に渡って、公式レートと非公式レート(所謂闇レート)が存在していた。国営企業の中には、2つのレートの価格差を利用して利潤を得ていた企業も多かったため、輸出状況が改善しないなど多数の問題が発生していた。

現在ではこうした2つのレートは統一され、IMF8条国にもなった。しかしながら現在でも非公式な為替レートが存在しているとの情報もある。こうした背景には、ウズベキスタンの通貨であるスムが安定していないという要因がある。

金融部門における他の問題点としては、銀行制度が未整備で、多くがまだ国有銀行であることも挙げられる。こうした背景には、まだまだ制度改変が進んでいないということに加えて、銀行制度を整備していくような人材が不足していることも挙げられている。こうした点に関しては、今後日本のJICAなどが積極的に支援してことのできる分野であると言える。

以上のように、政府と企業の関係、金融の2つの側面を見ただけでも、まだまだウズベキスタンが未成熟な経済体制を敷いていることがわかる。こうしたことが事実であるかどうかを、ウズベキスタンに訪問した際には確認してきたいと思う。

(文責:文科二類2年 西田夏海)

祝日に見るウズベキスタン文化

公開日:2011年9月2日

投稿者:uzstudent2011s

ウズベキスタンで行うプレゼンテーションの準備をみなさん各自進めているであろう。そのなかでも私は日本の文化・慣習・行事などを春・夏・秋・冬の四季にわけて紹介するグループに所属している。

日本の行事についていろいろと調べているなかで、ふと日本の「祝日」が日本の文化を象徴的に表していることに気付いた。祝日をみると、建国や独立といった国の歴史的事件やその国で大きな意義を持つ宗教的慣習が如実にわかる。

ということは、ウズベキスタンの祝日とその祝日が祝日たる由縁を調査すればウズベキスタンの文化やウズベキスタンの人々が重要視している行事について少しは理解が深まるのではないか。そう考えさっそくウズベキスタンの祝日について少し調査を試みた。

 ますは、ウズベキスタンの祝日と比較しやすいように参考までに日本の「国民の祝日」を以下に記す。

1月1日 :元日 年のはじめを祝う。

1月の第2月曜日:成人の日 おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます。

2月11日:建国記念の日    建国をしのび、国を愛する心を養う。

3月下旬の春分日:春分の日    自然をたたえ、生物をいつくしむ。

4月29日:昭和の日 激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。

5月3日:憲法記念日 日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する。

5月4日 :みどりの日 自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ。

5月5日:こどもの日      こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。

7月の第3月曜日:海の日   海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う。

9月の第3月曜日 :敬老の日 多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う。

9月下旬の秋分日:秋分の日     祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ。

10月の第2月曜日:体育の日     スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう。

11月3日:文化の日     自由と平和を愛し、文化をすすめる。

11月23日:勤労感謝の日 勤労をたっとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう。

12月23日:天皇誕生日    天皇の誕生日を祝う。

(内閣府HP「「国民の祝日」について」より)

 次に、ウズベキスタンで祝日とされているのは以下である。

1月1日 : 新年 Новый год

3月8日 :女性の日 День женщин

3月21日 :ナウルーズ Навруз

5月9日 : 戦没者慰霊の日 День памяти и почестей

8月30日 : ルザ・ハイート(断食明け大祭) Руза хайит

9月1日 : 独立記念日 День независимости

10月1日 :教師の日 День учителя и наставника

11月6日 : クルバン・ハイート(犠牲祭)Курбан хайит

12月8日 :憲法記念日 День Конституции

(JETRO日本貿易振興機構HP「海外ビジネス情報 ウズベキスタン 祝祭日より」)

上記の日付は2011年のデータであり、春分の日にあたるナウルーズやラマダーン終了日に行われるルザ・ハイートは年によって日付が変わることもある。

 1月1日に新年を祝うことや、春分の日を祝うこと、憲法記念日を祝うことなどは日本との共通点であろう。ただし、日本の場合には各行事のなかでも新年の行事に重きが置かれるのに対して、ウズベキスタンで重要視されるのは春分の日ナウルーズである。ナウルーズはペルシア語で「新しい日」という意味で、中央アジアからアフリカに至る広い地域で祝われている。ウズベキスタンでは3000年以上もの伝統をもつ行事であるようだ。長い冬を耐えて乗り越えて、やっと暖かくなり木々も目覚め始めるこの時期は農業的にも重要な意味を持ち、各地で音楽や舞踊のイベントが開かれるなど盛大に行事が行われる。家庭でも親戚中が集まって伝統料理の「スマラク」を作って食べる。

 ほかにもラマダーン明けのお祭りであるルザ・ハイートや犠牲祭であるクルバン・ハイートはウズベキスタンの「イスラム教」的側面が強く感じられる祝日である。こうしたイスラム祭のときにはお祈りのあとに施しをあげたりもらったりする習慣があるようで、こうしら「施し」の文化に日本との違いを強烈に感じた。

興味深いのが、「女性の日」が存在することである。「女性の日」は国際婦人デーとも呼ばれ、女性のための祝日である。「女性の日」には男性が女性になにかプレゼントを贈る習慣がある。プレゼントはたいてい花であることが多い。日本でも、女性が男性にプレゼント、たいていはチョコレートを贈る行事、バレンタインデーが存在しており、少し似ている。ただしバレンタインデーは女性が好きな男性に自分の気持ちを伝えるという側面があるが、ウズベキスタンの女性の日もそういう側面があるのであろうか。とにもかくにも、この日は一年で一番花が売れるため、街の中心部のバザールには花屋の露店が立ち並ぶ。花の需要が多いため、商売の原則通り花の値段も高騰する。もし知り合いの女性みんなに花を贈るとしたら、男性は出費に頭を悩ます一日になりそうだ。

 今回ウズベキスタンを訪問する祭は祝日を経験することはできないが、今度ウズベキスタンを訪れる機会があれば、祝日を経験しウズベキスタンの人々とともに祝日を祝ってウズベキスタンの文化に触れたい。

文科二類2年 斉藤江里

マハッラの移り変わり

公開日:2011年9月2日

投稿者:uzstudent2011s

私は前回の記事では、「マハッラ」とはどういったものであるかについて書き、マハッラの住民同士のつながりの強さ、助け合いの精神は特徴的であると述べた。しかし、そういったマハッラの伝統的な要素は時代と共に変化している。今回の記事ではマハッラ内における変化について書いていこうと思う。

 

 

マハッラについて考える場合、帝政ロシア時代、ソ連時代とソ連崩壊後から現在の大きく3つに分けて考えることができる。今回の記事ではその中でもソ連時代とそのソ連崩壊後のマハッラについて書く。

 

まず、時代の変化とともに政府がどのようなことをしたか、次にその影響を考えようと思う。

ソビエト政府によりソ連が始まる前にマハッラが行っていた税の徴収や治安の維持などの各地の管理の権利が奪われたことや、集団農場(コルホーズ、ソフホーズ)の形成によって、行政面と経済面でマハッラの力は弱まった。しかし、ソ連以前から存在していたマハッラを完全に廃止することは、ウズベク人の反感が大きいと考えたソ連政府はマハッラを残し、それをソ連教育推進の為に利用しようとした。このように、ソ連時代には政権はマハッラに対して二重政策を行った。ソ連教育推進の代表的な例として、前回の記事でも紹介したチャイハネをソビエト政権への理解を深める場へとするために「赤いチャイハネ」に変えたり、ソビエトを支持する者を長老に認定し若者への指導をさせたことが挙げられる。そして、マハッラの持っていた権限はソビエト政府により徐々に奪われていき、ソ連の終わりごろにはマハッラの役割は政府機関の仕事の補助としかみなされなくなった。

ソ連崩壊後、ウズベキスタン政府はマハッラを保護すべきウズベキスタンの伝統と認識したため、マハッラを組織化し、予算や人材、任務などを与えて公式な組織とし、ソ連時代にはコルホーズやソフホーズが支えてきたインフラ、施設、住民生活などを市場経済の導入によりマハッラ運営委員会の負担とした。

 

ソ連時代の政策により、20世紀初頭に宗教の次に大事と考えられていたマハッラの社会における地位は1960年代のインタビューで五番目になったことからもわかるように確実に下がった。しかし、そういった政府からの抑圧の影響があったにも関わらず「ガプ」や「グザル」、「チャイハネ」、「ハシャル」などの仕組みやマハッラのモラルや教育的役割、イスラーム的な慣行はソ連時代を通して確実に受け継がれていた。これはマハッラ内の伝統的教育がしっかりしていたためであると考えられる。そういったソビエト政府の影響以外にマハッラに大きな影響を与えたのは第二次世界大戦と1966年に起きたタシケント大地震であった。第二次世界大戦の時にロシア系住民がウズベキスタンの特に新市街地に移住してきて、その人々が現地の人々の考えに影響を与え、マハッラの形も変化していった。タシケント大地震では、マハッラが最も支持されていたタシケントの旧市街が破壊され、旧市街の多くの住民は新市街へと離散していったことと、タシケント再建のために全ソ連から人々が集まりそのまま住みついたために、伝統文化が更に変わった。このようにソ連の政策と戦争や地震などが合わさり新市街地では特に顕著にマハッラの存在感は薄くなっていった。

ソ連崩壊後は政府からの抑圧はなくなった。しかし、公式化されたマハッラ委員会では、規模が大きく広範囲を管理しなくてはいけないにも関わらず与えられる財源が少ないことや、責任感から働く伝統的なマハッラとは異なり仕事をこなす職員的な存在になったことで、賄賂などの不正が横行していてお金のある人が助けて貰え、ない人の頼みは聞いて貰えなくなったとも言われている。また、マハッラが公式機関になるとマハッラ内の活動への参加が義務付けられる可能性が出てきている。これは各自の自由意思・利益に基づいて参加してきたマハッラの伝統に反することである。このようなことと欧米の文化の流入などにより、マハッラに対する思い入れは若い世代から弱くなっている。

 

 

時代の変化と共にマハッラの役割、マハッラに対する住民の思いは変化している。今、ソ連時代を生き残ったマハッラが国家行政機関となりつつあるが、マハッラは住民の自由意思により行われてきたからこそ長い年月ウズベキスタンで機能してきたと思う。これが国の下部組織になると、マハッラの住民助けが以前のような自発的な意思に基づく温かみのあるものではなく、行政サービスの一環となり、ハシャルなどのマハッラに見られる良さがなくなるのではないかと思う。

公式化されて間もないマハッラの役割はこれからもどんどん変化していくと考えられる。住民間に漂うマハッラ内の不正に対する不信感の排除や、マハッラを国家機関の一部とするか否かの決断などウズベキスタン政府がこれからどう対応していくのか見ていこうと思う。

 

 

現地に行った際には、ウズベキスタンの学生に彼らがマハッラをどのように思っているかについて直接尋ねてみたいと思う。私たちと同世代のソ連崩壊後を生きている彼らは欧米文化の流入やウズベキスタン政府のマハッラ政策に最も影響を受けていると考える。そのため、彼らの考えがこれからのウズベキスタンにおけるマハッラを考える際に役立つのではないかと思う。

 

参考文献:「マハッラの実像―中央アジア社会の伝統と変容」 ティムール・ダダバエフ 東京大学出版会

(文責:理科二類二年 栗原)

気になる「ウズベキスタン文化・芸術フォーラム基金」

公開日:2011年9月1日

投稿者:uzstudent2011s

一般財団法人ウズベキスタン文化・芸術フォーラム基金。

この中央アジアゼミにおいて文化や芸術に興味がある人ならば、一度はこの基金のホームページを開いたことがあるだろう。(http://www.uzf.or.jp/ このHPのリンク先にもある)しかし、実際どのようなことを行っているか、詳しく知っている人は少ないのではないだろうか。この基金は、ウズベキスタンの文化や芸術を他国と協力しながら支援・発展・発信していくことを目的としている。そして、文化の相互理解、文化を超えた人類の協力を理念としているようである。文化に関して興味がある人はこうした活動があることをぜひとも知ってほしい。そうした人にとっては、きっと今後の人生に活かせるものだと考えられる。

ウズベキスタン文化・芸術フォーラム基金は、今日までにロシア、エジプト、中国、日本、ヨーロッパ諸国との緊密な文化交流関係が築かれている。カイロのアフマド・シャフキ記念美術館におけるウズベキスタンの装飾応用・造形美術展覧会、北京では定期的にウズベキスタンに関する様々な文化行事を計画し、また同時にタシケントにおける共同事業プロジェクトの企画も行っている。また中国におけるウズベキスタン文化デーは今年、ウズベキスタン文化・芸術基金との協力で行われた。日本において基金はウズベキスタン現代芸術家・写真家たちの5つの展覧会を協賛した。

基金はまたウズベキスタンの文化・芸術に携わる活動家たちと海外関係者たちとの国際的結びつきの発展に協力し、ウズベキスタンにおける海外の芸術・文化活動家たちとの共同プロジェクトや催しの積極的な後援者としての知名度も高い。この分野でとりわけ目立つものとしてポピュラー音楽フェスティバル、イタリアの指揮者ステファノ・トラジメニやドイツのチェロ奏者アントン・ニクレスクが参加したタシケントでのコンサート、その他が挙げられる。

ここで大事なことは、基金が各々の希望者に対し、民族間の相互理解や信頼関係を発展させ強めていくという社会共通の利益に合致した流れの中で、それぞれがそこにどう適応していくかを見極め、みずからの場所を探し出し、自分の力を発揮できるチャンスを与えているということだという。基金が特に力を入れているのは、ウズベキスタンと他の国々の文化・科学の代表者たちとの結びつきを強めていくことであるようだ。

「国際協力関係の拡大と深化およびそれによる国際関係の新しい質の高いステップへの移行は、それぞれの文化との継続的な対話なしには不可能である。こうした点からウズベキスタン文化・芸術基金はこうしたプロセスを成功に導くための重要な柱となり、また国際舞台におけるウズベキスタン文化、およびウズベキスタンにおける世界文化のガイド役を務めていくであろう」と述べている。

このような大きなビジョンの中、まだまだ活動しきれていない部分が見ている限りあるように思われる。例えばウズベキスタン文化の支援、発展に寄与している部分は大いにあると考えるのだが、発信の部分が不足しているのではないだろうか。その方法としてはウズベキスタンへの旅行者を増やすことなどがあるが、基金自身が各国に足を延ばすだけでなく、一つの軸足となる地域を確定しそこから発信の基盤を作っていくことも必要なのではないかと考える。今の状態を見ると、基金の規模が拡大するだけで活動を深化できず発信が中途半端になっていると判断できるからだ。また、ウズベキスタンの文化発信だけでなく、ウズベキスタン国民に積極的に様々な文化を受容させていくシステムも創出できればそれこそ文化「交流」の意味を成すだろう。今後の課題はたくさんあるように見える。

少なくともこの活動に私はとても共感できる。こうした文化に重きを置いた基金には是非とも活躍してもらいたいと願っている。なぜか。8月に私はインドネシアを訪れ、様々な文化の差異を認識した。文化を理解すること、そして文化の交流を図ること、それは人間相互が寛容に受容し世界平和の一歩となるからではないだろうか。宗教や生活、慣習、すべてが違っている。インドネシアもイスラーム大国であるが、ウズベキスタンのイスラーム教とは大きく異なっているはずだ。違いを受容し、そこの人を理解する。これはまさにグローバル化が進む現在において大切なことであろう。経済の発展に関してのみ協力してもダメであり、その国のためになるような協力をするためにはやはり文化認識、文化交流が基礎に置かれるべきだという感じている。ウズベキスタンにてあらゆる文化の差異をひしひしと感じとれる日が待ち遠しい。

参考文献:

http://www.uzf.or.jp/ 一般財団法人ウズベキスタン文化・芸術フォーラム基金

http://www.uzf.or.jp/forum/index.html ウズベキスタン文化・芸術フォーラム基金駐日代表部

文責:文科三類 西藤憲佑

ヒヴァの歴史と見どころ・中央アジアのフリーペーパー

公開日:2011年9月1日

投稿者:uzstudent2011s

ウズベキスタンで有名なオアシス都市の一つ、ヒヴァの歴史と見どころを紹介していきたいと思う。ホラズム州のヒヴァは首都タシケントから西750キロ程に位置し、かつてはこの地方の主要な都市として栄えていた。ヒヴァが初めて歴史に登場するのは10世紀のイスラム旅人による記述だが、6世紀にはすでに存在していたと考えられている。元々はイラン系住民が住みついていたが、10世紀頃にトルコ系民族にとってかわられ、17世紀にはヒヴァ・ハン国の首都となった。10月革命の後、ヒヴァを首都とした1920年にホラズム人民ソビエト共和国が建国された。しかし、この国は短命で、1925年にソ連に吸収されて姿を消すこととなった。1970年代から1980年代にかけてのソ連政策によりヒヴァの遺跡は非常によく保護されているが、逆に厳しすぎる保全活動により街が活気を失ってしまったようだ。その結果、ヒヴァの街全体が博物館のようになっている。

ヒヴァは城壁によって二つの町に分けられている。城壁外のエリアはディチャン・カラと呼ばれ、かつては11の門と要塞壁によって守られていた。城壁内はイチャン・カラと呼ばれ、1990年にウズベキスタンで初めて認定された世界遺産である。

クルフナー・アルク

イチャン・カラの西門を入った左手に位置し、「古い要塞」という名を持ったクルフナー・アルクはハンの生活場所であった。12世紀に建てられた後、17世紀にオラン・ハンにより拡張された。ここにはハンのハーレム、モスク、宮殿を含む様々な施設が含まれていた。

カリタ・ミナル・ミナレット

1851年に着工したこのミナレットは未完成のまま現在も残っている。ムハンマド・アミン・ハンの命によって建設が始まったが、1855年のハンの死によって中断となった。伝説ではブハラまで見渡せる塔を建てる計画だったと伝えられている。

イスラーム・ホジャ・メドレセ ミナレット

イスラーム・ホジャ・メドレセのミナレットは57メートルもあり、ウズベキスタンで最も高い。メドレセの内部は博物館になっており、絨毯や宝飾品などホラズムの工芸品が展示されている。メドレセとミナレットはどちらも1910年に建設された。

この写真はウズベキスタン大使館を訪問した際にいただいた資料の一つである。実は中央アジアに関するフリーペーパーマガジンなるものが存在し、大使館や中央アジア関連のイベントなどで配布しているらしい。その名も「SILKROAD Walker」で、今回いただいた2010年版のものはウズベキスタン特集である。表紙は上で紹介したヒヴァのカリタ・ミナル・ミナレットである。SILKROAD Walkerにはウズベキスタンの地理・歴史から我々中央アジアゼミが回る4都市のホテルやレストラン情報に至るまで、かなり細かい観光情報が記載されている。最後にはウズベク語とロシア語の挨拶と基本表現も載っており、もはやガイドブックである。しかも前頁がカラー印刷で、読みやすい。今まで書店で手に取った中央アジアに関する観光ガイドよりも詳しいのではないかと思うほどだ。ここまで力の入ったフリーペーパーが存在するのにほとんど知られていないは残念なことだと思った。私も大使館で各都市の地図とともにこれを手渡されて「こんなものがあったのか」と驚いてしまった。

外国にとっては「シルクロード」という言葉の響きだけで魅力がある。そして実際ウズベキスタンには多くの遺跡と豊かな文化があり、このような資料を配るほどの努力がなされている。それにも関わらず観光大国となっていないのはなぜだろうか。ここまで調べてきたこと、聞いてきたことを踏まえて個人的に感じた一番の原因は情報不足である。確かに「シルクロード」「オアシス都市」などと聞くと神秘的なイメージがあるが、「中央アジア」「ウズベキスタン」などの言葉とは若干ずれがあるように感じる。より積極的にPRをしていくことがウズベキスタンの観光産業において重要なのではないだろうか。この点についても、現地で実際に観光、学生と議論していくことで探っていきたい。

参考:

ウズベキスタン航空・観光情報 http://www.uzbekistan-airways.co.jp/khiva.html

Lonely Planet “Khiva Information and Travel Guide” http://www.lonelyplanet.com/uzbekistan/khorezm/khiva

SILKROAD Walker 2010年号

文責:文科二類2年 末松

ウズベキスタン大使館訪問記

公開日:2011年8月31日

投稿者:uzstudent2011s

先日、目黒にある在日ウズベキスタン大使館を訪問した。きっかけは、他の大使館がインターン募集していることを知り、中央アジア散歩を履修するにあたってウズベキスタン大使館でインターンを経験してみたいと思ったことだ。ウズベキスタン大使館の公式サイトが見つからなかったためダメ元で履歴書と手紙を郵送してみたところ、岡田先生の元に電話がかかってきたとのこと。直接連絡がくるのをじっと待ち、辛抱が報われたのは数カ月後のことであった。こちらの都合のいい時にいつでも会ってくれる、と非常に親切だが若干曖昧な内容の返事である。これがウズベク流のおおらかさなのであろうか。とにかく突撃訪問してみることにした。

大使館の場所を調べてみると、徒歩圏内に駅がないためバスに乗ってアクセスする。渋谷から約25分の入谷橋で下車すると辺りは静かな住宅街である。しかし、30秒ほど歩いたところの角を曲がると、ウズベキスタンの国旗がはためく大き目な家がそこにはたっていた。旗を発見して思わずにやり。

近づいてみると門にはやはり「ウズベキスタン大使館」と表記されたプレートがあった。インターホンを押して名乗ると奥の扉から案内された。中はオフィスというより、外装通り高級住宅といった感じで、壁にはウズベキスタンの美しい建築や風景の絵画が飾ってある。

ミーティングルームらしき部屋に案内され、しばらくするとメールのやりとりをしていたコシモフさんがいらっしゃった。その後一時間程お話を伺ったが、ウズベキスタンと日本関係に関しする前向きさと熱心さが深く印象に残った。盛んになりつつある日本・ウズベク大学間の交流やビジネスでの協力体制、シルクロードを渡ってウズベキスタンへ伝わった奈良時代の日本の工芸品などを挙げて、両国の国際関係について語られた。我々の中央アジアゼミについても関心を持たれている様子であった。ウズベキスタンでの研修後、ウズベク文化を発信する機会があれば大使館の協力も得られそうだという心強いお言葉もいただいた。ゼミ研修への出発が迫ってきているが、実際にウズベキスタンを自分たちの目で見て、現地の学生と議論を重ねた上で今後我々がどのようなウズベキスタン文化を持ち帰り、発信していけるかを考えていけたらと思う。

追記

大使館で伺った話の中にあった日本とウズベキスタンの関係について少し触れておく。今年の2月にウズベキスタン大統領が来日した際、東京で菅前総理と会談し両国の政治・経済を含む複数の観点における関係の発展について合意に達した。日本とウズベキスタンは1992年に国交を結んだが関係を強化していく余地はまだまだあるように思われる。

ウズベキスタンはウランの埋蔵量が世界10位であり、他にも天然ガス、レアメタル、金などの資源が眠っている。資源に乏しい日本としてはウズベキスタンとの関係を強化することでこれらの確保が望まれる。資源開発を望む日本企業を支援し、貿易の手続きの改善など両国をつなぐビジネス環境を整える必要があるという共通の認識を両政府は持っているようだ。

ウズベキスタン側としては日本企業の技術移転や投資、情報コミュニケーション技術においての協力を望んでいる。また、環境への配慮と安定したエネルギー供給を両立できる代替エネルギー技術への移行もウズベキスタンの課題である。これも日本の技術協力が可能な点である。

資源が乏しいが高い技術力を持つ日本と、資源が豊富だが発展途上のウズベキスタンは経済・技術的に協力していくことで利害が一致するように思われる。経済や政治において国際関係がさらに向上することで両国の文化的交流も進んでいくことが望まれる。

文責:文科二類2年 末松

街紹介班FW報告

公開日:2011年8月30日

投稿者:uzstudent2011s

前回の記事では、私達にとって異国であるウズベキスタンを考えるために、一つブックレビューを書いた。異国を理解する方法はいろいろあるだろうが、この本ならばある程度、ウズベキスタンに対してリアリティを感じられるだろう。疑似体験でもいいから、何らかのリアリティを感じることが異国理解につながるのでは、と思っている。

さて、我々がウズベキスタンに訪問した際には、日本のことを紹介する機会があるのだが、その際にもリアリティをもってもらうために、先日グループで東京中の写真を撮って歩いた。渋谷のスクランブル交差点、109、銀座、代官山・・・・。今回は街紹介班で行ったFWについて報告しようと思う。

東京の魅力が何であるかを考えると、比較的狭い地域に、様々な特色をもった地域が存在していることである。渋谷や高田馬場のような若者・学生の街から、青山・代官山のような落ち着いた雰囲気の街並み、丸の内・神田のようなビジネス街、浅草・金町のような下町。こうした東京の特色を伝えられるように、各地域に特徴的な風景をなるべく収めようとした。スクランブル交差点のような有名所だけではなく、官庁街の建物など、日本の中心である東京の建物・街の多様性を示せるような写真を撮るよう尽力した。

FWは、渋谷→代官山→永田町→霞ヶ関→銀座→神田→丸の内→東京と続き、夜が更けたので終了した。要素的に下町的な要素が欠けてしまったことは非常に残念であるが、ある程度の写真が撮れたのではないかと思っている。例えば以下の様な写真である。

・総務省(霞ヶ関)

(筆者撮影)

 

・夜の東京駅前

 

(筆者撮影)

こうした写真用いて、日本の紹介を上手く行えたらと思っている。

(文責:教養学部文科二類 西田夏海)

 

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