中央アジア散歩 2011年夏学期 全学自由研究ゼミナール

Just another 教養高度化機構チーム形成部門 site

文化の交節点としての中央アジア(後編)

公開日:2011年9月1日

投稿者:uzstudent2011s

 

 14世紀末、中央アジアのトルコ人居住地域とイラン高原のイラン人居住地域にまたがるティムール帝国が成立してことによって、イラン=イスラム文化がトルコ人にも伝えられ、トルコ人を主体とするイスラム文化が形成された。トルコ人のイスラム化による文化の形成は11世紀のカラ=ハン朝に始まるが、それが開花したのがティムール朝であった。その中心と帝国の二つの都、サマルカンドとへラートが繁栄した。これらの都市には広大なモスク(イスラーム寺院)やマドラサ(学校)が建設され、さらにまた、宮廷では細密画(ミニアチュール)が描かれ、それとともにアラビア語をさまざまな書体で表現するアラビア書道が発達した。また文学ではすぐれたトルコ語(チャガタイ=トルコ語)の文学作品が生まれた。ティムール朝のトルコ=イスラム文化の多面性のひとつに、ウルグ=べクがサマルカンドに建設した天文台にみられるような独自の科学の発展も見られた。

 今回はミニアチュールとチャガタイ=トルコ語について注目したい。ミニアチュールはもともと偶像崇拝の禁止されているイスラム世界で、コーランなどの写本を飾る装飾として生まれた。モンゴル時代のイランのイル=ハン国で中国絵画の影響を受けて始まり、ティムール朝の宮廷で最高の水準に達した。特にティムール朝末期のスルターン=フサインのヘラートの宮廷には、イスラーム世界が生んだ最高の画家と言われるビフザード(1450頃~1534)をはじめとする多くの画家が活躍した。このようにミニアチュールは中国という東方文化の影響を得て生まれた文化の代表的なものと言えるだろう。

 次にチャガタイ=トルコ語について。中央アジアにおけるトルコ語の形成には、11世紀のカラ=ハン朝のカシュガリーによる『トルコ語辞典』の編纂から始まるが、このティムール朝時代のヘラートで活躍したアリシ―ル=ナヴァーイーが、「チャガタイ=トルコ語」を文章語として完成させ、現在「ウズベク文学の祖」として顕彰されている。またムガル帝国の創始のバーブルの自伝である『バーブル=ナーマ』も、すぐれたトルコ語文学として重要である。文化交流のなかで正式な言語の形成が行われたことは非常に興味深い点だと感じた。

 

 シルクロードを中心として東西交流が盛んになり、後のティムール帝国によってサマルカンドをはじめとする中央アジアは繁栄を極めた。それらの交流を受けて作られた新たな文化は後の世界の文化的発展に大きく寄与したと言えるだろう。またモンゴルとトルコ、イスラムにイランという異なる様々な文化を混合することに成功した中央アジアという地の特殊性に私は非常に興味を持った。今回自らの足で直接中央アジアの地を踏みしめるに至っては、ティムールが夢見て実現した「青の都」に身を置きつつ、かつての豊かな文化交流に思いを馳せ、少しでもそれを肌で感じることができればと思っている次第である。

 

<参考文献>

・草原とオアシスの人々(人間の世界歴史) 護 雅夫・遊牧国家の誕生 (世界史リブレット) 林 俊夫

・西アジア史2 イラン・トルコ 新版世界各国史・モンゴル帝国と長いそのあと 興亡の世界史  杉山 正明

 

二年文科一類 内藤めい

文化の交節点としての中央アジア(前編)

公開日:2011年9月1日

投稿者:uzstudent2011s

 「中央アジアってどんなところ?」

 

私がこのゼミに興味を持ち、学期を通じてこの地域について学ぶ端緒となったのはこの一つの素朴な問いであった。地理的な情報ばかりが頭を巡る中、突発的に「文明の交節点」という単語が閃く。普段生活していても中央アジアに接しその存在を強く意識することは無に等しかった私にとって、唯一とも言える接点は自分が学んできた世界史の教科書であった。この「文明の交節点」というタームに強く惹かれた私は、今までに学んできた中央アジアの歴史を軽く浚うとともに、教科書で取り上げられることで日本人学生に植えつけられているイメージを探りたいと考えるに至った。

 まず一番に中央アジアの歴史と聞いて浮かんだのが「シルクロード」である。南ロシアの草原地帯から、カザフ高原、天山山麓、モンゴル高原、長城地帯を結ぶ大ステップ地帯をつらぬく最も古い東西交易路である。スキタイ、鮮卑、フン、アヴァ-ル、マジャール、突厥、ウイグル、モンゴルなどの遊牧騎馬民族の活躍舞台となっていた。草原の道では、機動力を利用した騎馬民族が東西に移動して支配権を争うと同時に、中継貿易も担っていた。しかし商業だけでなく彼らは情報の収集に熱心で、積極的に新しい文化を受け入れようとしたため、東西文化交流のうえで、直接・間接に大きな役割を果たした。南方のオアシス世界の定住民(ソグド人など)が貿易を直接担っていたのだが、強力な軍事力を持った遊牧騎馬民族が協力したことでスムーズに貿易を行うことが可能になったのである。

 このシルクロードが歴史上重要視されているのは、彼らによって中央アジアがヨーロッパと中国を結ぶ文化の交節点とたし得た点である。具体的には世界史で学ぶ通り、中国からは特産の絹が、西からは玉や宝石、ガラス製品などが運ばれた。またインドの仏教やイランのゾロアスター教(祆教)マニ教、ローマで異端とされたネストリウス派のキリスト教(景教)やイスラム教(回教)などの宗教も到来し、一方中国からは鋳鉄技術や養蚕、製紙法が西方へ伝わった。

そしてこのシルクロード世界は13世紀のモンゴル帝国の成立によって、東西交流が一段と盛んになった。

 

 続いて中央アジアのモンゴル=テュルク系軍事指導者であるティムールの存在でいよいよ交流は最盛期を迎える。特にその文化交流の要衝としてサマルカンドが栄えるようになった。サマルカンドは13世紀にモンゴル軍の侵攻によって一時廃墟と化していたが、ティムールによって再建された。彼はチンギス=ハンと何かと比較されることが多いが、チンギスに対して文化を重要視していた。彼はどこにもない美しい都市を目指し、各地の遠征先からすぐれた技術者や芸術家たちを連れて帰った。サマルカンドには中国の陶磁器とペルシアの顔料が出会って誕生した「サマルカンドブルー」とよばれる「青の都」が誕生した。モンゴルという精神的基盤にトルコという民族的基盤、そしてイスラム宗教に対する信仰に基づき、支配したイランの文化を吸収し、この地にティムール朝文化が花開いたのだった。

 補足的にこの後のサマルカンドの歴史を概観しておくと、14~15世紀にティムール帝国の首都となった後諸王国がサマルカンドを巡って争奪を繰り返すようになった。(これには後のムガル帝国の始祖となったバーブルも参加している。)そして1500年にシャイバーニー長のジョチ・ウルス系のウズベク系が征服して戦乱を収めた。しかし18世紀中ごろにウズベク諸政権内部の対立や諸部族の抗争、アフシャ―ル朝(イラン)の侵攻をうけて荒廃してしまった。続く1868年ロシア軍による占拠をうけロシア領トルキスタンに編入。元来よりイラン系ペルシア人が多かったがソビエト連邦によって1924年ウズベク・ソビエト社会主義共和国の首都となった。このようにティムール朝で繁栄を極め文化交流が盛んに行われていたサマルカンドは15世紀以降騒乱が続きその求心力が失われてしまったことはとても残念である。

 

二年文科一類 内藤めい

青色のウズベク世界 ―ウズベキスタンのイスラーム建築史―

公開日:2011年9月1日

投稿者:uzstudent2011s

ウズベキスタンのイスラーム建築を見ていく。そうすると、最も目に付くものはなんだろうか。

まさに鮮明な青。魅力的な心揺さぶる青。イスラーム教において聖なる色とされる青。サマルカンドの町に映える青。その美しい青を発するレンガやタイルの面白さをまずは紹介していきたいと思う。

青レンガ・タイルには大きく4つ程に分けられる。施釉レンガ、浮彫施釉レンガ、ハフトランギー・タイル、カットワーク・モザイクである。

 

施釉レンガ       ハフトランギー・タイル       カットワーク・モザイク

 

施釉レンガは表面の一面だけに釉薬を塗ったもので、素早く仕上げることができるように効率化を図っていると考えられている。なぜだろうか。それはティムール時代の建築ラッシュが影響しているようだ。多くのモスクを建築するためにも、効率性を向上させなければならない。

一方で、ハフトランギー・タイルやカットワーク・モザイクのような精緻なタイルも存在する。これもティムール時代の建築ラッシュに深く関わっていると言える。というのも、たくさんのモスクを築き上げるために不可欠となるのは労働力であり、ティムールは征服した各地から技術者を収集したと考えられるからである。つまり、各地の建築技術がウズベキスタンに集積し発展を遂げたということである。

また、面白いのは浮彫施釉レンガである(右図)。

この模様は中国の唐草模様がとても影響していると思われる。ウズベキスタンがシルクロードの中継都市であることが顕著に表れていることがここからよく分かる。レンガやタイルを見ただけも、ウズベキスタンが西洋と東洋の結節点であることを我々は知ることができる。

このように青色のレンガ・タイルを検証するとどうだろうか。すると、単なる建築材料一つの中にもウズベキスタンの歴史が煌めいていることが見えるのではないだろうか。どんな時代を建築が生きてきたのか、建築材料から発見できるならば、建築全体を見るとどうだろうか。

時代が与える影響を中心とした建築全体の変遷に関して次に記す。

上記にもあるが、ティムール朝の時に建築の黄金時代を迎えている。そして、16世紀以降、喜望峰の発見によりシルクロードの隊商貿易は停滞してしまうのだが、それに左右されず美しい建築遺構が依然として築かれる。特徴としては、きわめて派手な装飾が見受けられるようだ。これはまだウズベキスタンが威厳を持っていることを示すためなのだろうか。しかし、18世紀以降の建築はどういう訳か創造性を喪失してしまい、建築史において衰退を迎えることになるのである。そのため、あまり評価を受けない建築が多いという。

様々な時代を生き抜く建築。その時代の影響は材料一つにも表出していて、また建築史を眺めると、建築というものが文化と歴史を同時に孕み、後世に伝えていく重要なものであることが分かるだろう。

参考文献:

辻孝二郎 2010 イスラーム建築の華        (INAX REPORT no.182 p50-51) http://inaxreport.info/data/IR182/IR182_p50-51.pdf
石井 昭 1969 中央アジアのイスラーム建築 (東洋建築史の展望) 建築雑誌 84(1005) p45-54 社団法人日本建築学会

文責:文科三類 西藤憲佑

中央アジアの歴史小話2

公開日:2011年8月28日

投稿者:uzstudent2011s

大宛国の首都
近代以前に中央アジアに興亡した数多の国の歴史には不明な点が多い。このことは前回の記事でも述べたことであるが、今回はそのような謎を解明するために行われた研究の一例として、前回の記事で触れた大宛国についてもう少し掘り下げようと思う。例によって細かいトピックになってしまうが、どうか勘弁していただきたい。今回のテーマは大宛国の首都についてである。
大宛国の首都の所在は明らかでなく、これについて学者たちが様々な説を主張し、その論争は現代に至ってもなお収束のめを見ない。これからその論争の過程を軽く見ていく訳だが、その前に大宛国についていくつか補足しておこう。

大宛国②
大宛国はイラン民族の定着農耕社会であり、人口は数十万の規模であったとされる。その位置については前回述べた通り諸説あるが、ここではフェルガナに存在していたと仮定しよう。大宛とは「広大なオアシス」の意であったらしく、ぶどう酒や馬が主産物であった。「史記」の記述によれば、前述のように、張騫の報告によって汗血馬の存在を知った前漢の武帝はこれを強く欲し、使者を大宛国に送ってこれを求めるも、すでに大量の漢の物産を得ていた大宛の王はこれを拒否、怒った武帝は大軍を派遣し、二度の攻撃の末に宛都と記される「弐師城」を攻略させ、服属せしめた。

弐師城と貴山城
武帝の軍によって陥落した弐師城は、宛都と記されていることから、大宛国の首都であったことは疑いようがない。しかし一方で「漢書」では大宛国の首都は「貴山城」であったと書かれている。ここで様々な憶測が飛び交うことになる。この二つはまったく違う場所でどちらかが誤った記述なのか、はたまたひとつの首都が時代によって異なる名前で呼ばれていたのかといった具合である。この疑問に対する明確な結論は未だ出ていない。しかしながら、現在では二つの都市がどちらも大宛国の都を指しているとの見方が趨勢であるようなので、ここにおいてもこれを前提に話を進めていくこととしたい。

首都はどこか
ここまで見てきた分だけを見ても、大宛国は不明な点が多くあることは明らかであろうが、ここでさらに別の疑問が出てくる。大宛国の首都、すなわち弐師城ないし貴山城は現在のどの都市に比定されるのか、というものである。これに対する論争は一時期非常に盛んになり、多くの学者が「弐師」や「貴山」がどのような音に対して当てられたものかという考察や、「史記」「漢書」の記述から地形や川の流れなどから位置を推測する作業などを通してこの謎に包まれた首都の位置を解明しようと努力を重ねてきた。各々の学者が主張する首都の位置はフェルガナ地方を中心に広く散らばっており、それらすべてをここで紹介するのは不可能である。そのためここでは私が興味を持った二つの説を紹介しよう。

A・N・ベルンシュタムの主張
ソ連の考古学者ベルンシュタムは、オシュの郊外に馬の岩壁画を発見し、これを有力な手がかりとして、そこから遠くない位置にあるオシュ河岸の廃墟マルハマトを首都に比定している。彼は問題の岩壁画に描かれた馬の外観がモンゴリアや西アジアのそれと異なる特徴を持っていることを指摘し、これこそが汗血馬を描いたものであり、岩壁画が描かれたこの場所が馬の繁殖を願う信仰の場であったというのである。したがって、首都はここからそう離れていない位置に存在していたと推理し、遺跡発掘の結果堅固な城壁を持っていたことがわかった廃墟マルハマトにたどり着いたのである。ベルンシュタムは発掘報告において、遺跡で発掘された物品が紀元前2~3世紀のもので大宛国の時代と矛盾しないことや、中城や外城の存在が確認されたことも述べている。この説明で筆者は大いに納得したのだが、これだけの調査をもってしても、マルハマトを首都に比定する確固たる証拠はないのである。

「ニサ=弐師」説
もうひとつ紹介する学説は、「弐師」をギリシア人の言う「ニサ」という音に当てた文字であるとする説である。この説は西洋において有力視されており、19世紀から主張されている。一世紀のギリシア人地理学者ストラボンはニサをアムダリヤ川の南西にあったとしている。そうであるとするとニサはフェルガナに存在しなかったことになるが、これも確証はない。それではこの話をもう少し掘り下げてみよう。
ニサはギリシア神話において酒神バッカスがニサのニンフたちに育てられたというエピソードからきているが、この地名はアレクサンドロス大王の遠征以前からこの地域にいくつも存在している。それらがすべてこの神話からきているとも限らず、たかが二音節のため偶然の一致とも考えられる。ニサという地名が酒神とかかわりがあることからぶどう酒が連想されるが、フェルガナ以外の地域でもぶどう酒は広くつくられているためヒントとはならないだろう。いってしまえば、仮にニサ=弐師の学説が正しいとしても、そのニサが現在のどこに当たるかを突き止めるのは不可能に近いのである。

これからの展望
ここまで大宛国にかかわるいくつもの研究を紹介してきたが、多くの学者の懸命の努力にもかかわらず、いずれも答えは出ていない。当然、私のようなシロウトがこの問題に対して解決の光を当てることなど到底かなわない。しかしながら、現地で大学生に対してのヒアリングを通し、現地の人がこの問題に対してどのような認識を持っているのかを(おそらく大半の人はこの国の存在すら知らないかもしれないが)調べてみたい。ほかにできることといえば、ウズベキスタンの地に立ち、はるか昔にこの地を駆け抜けた名馬に思いをはせることであろうか。

文責:文科二類二年 藻谷

中央アジアの歴史小話1

公開日:2011年8月12日

投稿者:uzstudent2011s

始めに
このゼミにおいて私は中央アジアの歴史に興味を持ち、調査を行ってきた。中央アジアはシルクロードの通り道として世界史に名を馳せており、アレクサンドロス大王やイスラーム軍、チンギスハーンといった他地域の侵攻を受け、様々な民族が入り混じって覇を競い、また文化的にも他民族の影響を受けて変容を繰り返してきた。しかし、このように非常に魅力的な研究素材を多く内包しているにも関わらず、資料の少なさもあってか中央アジアの歴史研究はあまり進んでいないのが現状であり、高校の教科書等での扱いも非常に少ない。このような研究対象としてのフロンティア性に魅かれ、私は中央アジア史を調べるに至ったのである。
とはいうものの、中央アジアの歴史は前述のように様々な要素を含んでおり、短期間に深く、且つ体系的に知るにはいささか困難を伴う代物である。したがって、中央アジアの歴史を俯瞰するであるとか、シルクロードの通商史において中央アジアの位置づけを行うといった大それたことはせず、いくつかの小さなテーマを設定し、それについて調べるという手法をとってきた。今回はこのブログでそれらのうちいくつかを紹介したいと考えている。
始めにことわっておくが、これらのテーマは各々がかなり狭い範囲を対象としており、これらの調査の価値を実感できない人が多く出てくるのも至極当然のことである。しかしながら、イスラームにおいて「神は細部に宿る」とも言われるように(かなりこじつけではあるが)、このような地味な調査も歴史を理解するうえで重要になってくるということを強調し、読者各位のご理解を頂きたい。
では、具体的な調査内容に入ろう。一つ目のテーマは汗血馬についてである。

大宛国①
汗血馬について語る前にまずは大宛国について述べねばなるまい。大宛国とは現在のウズベキスタン、タジキスタン、キルギス共和国にまたがるフェルガナ盆地に紀元前二世紀ごろから存在したとされる国である。この国自体は中央アジアにおいて無数に興亡した小国家のひとつに過ぎず、前漢の張騫がその存在を紹介するまではほとんど知られていなかったほどであり、詳細な歴史についてはわからないことだらけである。そんな国を世界史において一躍有名にしたのが、他ならぬ汗血馬である。

汗血馬
ではその汗血馬とはいったいどのような馬であったのか。汗血馬とは読んで字のごとく「血のような汗を流して走る馬」のことであり、(もちろん誇張であろうが)一日に千里(約500km)も走ると言われている。大宛国はこの汗血馬を多く産出したとされ、先述の張騫が汗血馬を大宛国の存在とともに武帝に報告すると、良馬の不足に悩んでいた武帝はこの類まれな名馬を強く欲するようになり、大宛国にこれを求め、最終的には軍をもって服属させるまでに至っている。また、三国志演義に登場する赤兎馬もこの汗血馬をイメージしたのではないかとされる。

汗血馬の正体
このように中国史に登場してくる汗血馬は、実際はどのような馬であったのだろうか。常識的に考えれば血の汗を流す馬が実際に存在したとは考えにくい。この「血の汗を流す」という部分に関してはいくつかの説が挙げられているものの結論は出ていない。ひとつは馬の毛色によって、流れた汗が血の色のように見えたというものである。これは実際にそう見えることがあるということから有力であるように思われる。もう一つの説として、血汗症という症状を起こす寄生虫によって実際に血の汗を流していたというものがある。この説は趨勢であるようだが、汗血馬が血汗症であったという証拠はなく、今となってはそれを知る術はない。他にも寄生虫によって表皮に滲んだ血液が汗と混じって見えたといったような説もあり、想像欲を掻き立てられる。「一日に千里を走る」という部分は間違いなく誇張であるにしても、寄生虫がついた馬が痛みに刺激されて通常より速く走るということはあるようだ。

伝説の名馬は今どこに
様々な学説が飛び交う汗血馬だが、現代には存在するのか。自分が調べた限りにおいては、現在フェルガナ盆地周辺ではあまり馬の飼育は盛んではないようで、この地がかつて名馬の里であったとされるのに対し、今では馬の価値もそこまで高くないのではないかと思われる。このあたりについては実際にウズベキスタンで馬の現状についての軽い調査をしてみたいものである。一方で、フェルガナ盆地とは異なる場所で、汗血馬の子孫とされる存在を見ることができる。主にトルクメニスタンで飼われている「アハルテケ」という種の馬がそれである。トルクメニスタンは現在でも馬の名産地として有名であり、アハルテケは同国の国章にも描かれている。この種は小柄であるが美しい体つきをしており、4152kmを84日で走破した記録を持つほど走りに長けている。ここで問題になるのはもしアハルテケを汗血馬の子孫とすると、大宛国の位置そのものがフェルガナ盆地よりもさらにトルクメニスタン側にあった可能性が出てくる点である(フェルガナとトルクメニスタンの間にはかなりの距離がある)。これは大宛国の位置がそもそも確定していないためであるが、このあたりは次回のブログの内容の布石とし、今回は汗血馬について述べたところまでで筆をおこうと思う。

文責:文科二類二年 藻谷

ソ連の歴史教科書における日本の戦後

公開日:2011年8月11日

投稿者:uzstudent2011s

本来はウズベキスタンの現在の歴史の教科書について書きたかったのだが、手に入らなかったため文科省内にある教育図書館所蔵の”Новейшая история для 10 класса”(10年生のための現代史)(1973)を参照した。

「日本」という題で4ページ半にわたる章がもうけられており、さらに「戦後の改革」「戦後の経済成長」「外交」「労働運動 」「日本国民の平和のための闘争」といった小見出しで分けられていた。

やはり社会主義的イデオロギー色が濃いことは否めない。中小企業の労働者が大企業に苦しめられていることや格差に関する記述が多く見られる。

「急速な工業の発展は科学技術革命だけでなく日本のプロレタリアートの残酷な搾取によって説明される。国家機関が巨大コンツェルンの繁栄に協力し、免税をしたり、利益になるような注文を割り当てたり、大規模に経済改革を変更したりして国が経済における重要な役目を果たしている。」

「増大する小作農の土地に対する闘争の影響のため政府は農地改革(1946〜1949)の導入を急いだ。地主には耕作地が3町残され、残りは国が買い取り農民に売却した。農地改革は小作人の数を減らし自作農を2倍に増やした。富裕な農民は顕著に財産をふやした。高い土地代のため多くの下流、中流階級の農民は土地を所有することはできなかった。」

基本的にどの資本主義国についても批判的に書かれている。しかしアメリカを絡めた批判が多いことが特徴的である。

「日本の民主化と非軍備化に関する連合国列強の決定にも関わらず、アメリカの占領政権は独占企業と地主と強く結びついた反動的な代表者からなる政権を形成した。その後、彼らは統治の指導者となり、現在は独占企業に支援を受けた自由民主党として政権を握っている。アメリカの支援のもと政府は以前の国家機構を維持し左翼を罰し労働運動を抑圧した。政府は政治力によって日本の独占企業の地位の復興を促し国内のアメリカの影響の案内人となった。」

「サンフランシスコ会議の後、自由民主党は陸海空軍設置に着手した。これは明らかに憲法に反している。(中略)アメリカ帝国主義は日本を軍備化することを選んだのである。」

今の日本の歴史の教科書や、参考として読んだ今のロシアの歴史の教科書とは、だいぶ趣きが異なるのは確かではある。しかし、かといってこの教科書に書かれていることが嘘八百だとは思わない。普通の教科書では切り捨てられがちな弱者に焦点を当てている点は特筆すべきであろう。ただ自国の政治、経済が腐っていることを棚に上げて批判している点は問題があるが‥。

(文:文科三類二年 濱中)