ヒヴァ旅行記その1
公開日:2011年9月11日
投稿者:uzstudent2011s
皆様こんにちは。
「中央アジア散歩」ゼミでは14日からのウズベキスタンでの現地研修を前に、一部のメンバーでオプショナルツアーを敢行中です。この旅程では、14日からの研修では行く機会の得られなかったヒヴァ・ブハラを訪ねることになっており、10日現在、誰もけがなどに苛まれることなく予定をこなしています。我々一同は9日にタシケントに入り、今日10日に国内線を利用してヒヴァ入りを果たしました。
ヒヴァはウズベキスタン西部に位置する古都であり、二重の防壁に囲まれたイチャン・カラと呼ばれる内城には宮殿やモスク、メドレセ(イスラームの神学校)などが多く立ち並んでいます。非常に狭い内城に中世の色をそのままとどめていることが評価され、「博物館都市」に指定されたほか、世界遺産にも登録されています。
今日は着いたばかりであまり多くの場所を廻ることはかないませんでした。しかしながら、先ほど述べたようにイチャン・カラ自体の面積は小さいため、少し城内を散策するだけでヒヴァがどのような空気を持つ場所なのかは理解できます。
イチャン・カラには今でもはっきりと立派な城壁が聳え立っており、かつての威光そのままに訪れる人を圧倒しています。城壁の内部は年季の入った土造りの建物が所狭しと重なるように建っており、路地を歩くとところどころで不意に荘厳なメドレセに出くわします。二本のミナレットが空を削るかのように高く聳え立っており、城内の至る所からその姿を拝むことができます。城内には時折鶏や犬の鳴き声が響き、観光客がさほど多くないことも相まって書き表せない空気を醸し出し、タイムスリップでもしたかのような気持ちにさせてくれる素敵な街です。夕方には熱さを嫌って外出を控えていた人達も次第に街に繰り出し始め、子供たちが畏れ多くも世界遺産の壁をゴールにサッカーをしています。
明日は城内を隈なくめぐり、報告をしたいと考えています。ネット環境は充実しておらず、定期的な報告ができるかは甚だ疑問ではありますが、可能な限り更新を続ける予定です。ではまた明日このブログでお会いしましょう。
文責:文科二類 藻谷
ウズベキスタンの食文化(後編)
公開日:2011年9月5日
投稿者:uzstudent2011s
後編になります。
(左:ウズベキスタンのナン 右:インド料理で有名なナン)
「ナンなら知ってるよ〜」という方も多いのではないでしょうか。インド料理で食べたことあるから知っているという方、ウズベキスタンのナンは都内インドカレー店で出てくるお馴染みの「ナン」とは少し異なります。丸く焼かれたものが多く、乾燥地域のため、保存食としても用いられています。湿気の多い日本で放置していたらすぐにカビてしまいますね。少し蛇足になりますが、ウズベキスタンは乾燥した気候を生かして、ナン他、ドライフルーツなどの保存食が親しまれています。メロンのドライフルーツなどが有名なようで、実際授で食べてみましたが、噛んでいるとじわじわとメロンの味がしみ出てきます。ナンに戻ります。外観の特徴としてウズベキスタン東部は分厚く見た目も綺麗なナンが多いのですが、西に行くに連れて、薄く平になっていきます。サマルカンド地方のナンがおいしいと言われています。プロフと同じく、地方ごとの違いが楽しめる料理ですね。
最後に「チャイ」です。
日本のインド料理ブームによって、「チャイ」についても相当有名になっているのではないでしょうか。チャイ=お茶 という認識で大丈夫です。油っぽい料理が多いウズベキスタン料理ですが、そんな食事に必ずといって言いほどついてくるのがこの「チャイ」です。急須にお茶碗という日本らしい食器が一般的です。食事の際にはブラック(紅茶に近い)かグリーン(緑茶に近い)から選べる事が多い。インド料理などで出てくるチャイのようにミルクが入ったというものではなく、
福井の食文化についての報告は以上になります。
文献が非常に少なく(学術論文についてはさらなりですが)、現地でのリサーリが大変楽しみです。
以下、所感です。
ほとんどの日本人が「ウズベキスタン?どこそれ?」というのが現状だと思います。実際自分自身もこの授業を取る以前はあまり中央アジアに対する知識はありませんでした。授業では食文化を中心に(間下君と二人だけで…)調べてきましたが、印象としては、思っていた以上に日本に近い部分を持つ国だということです。きっと中国に近いと言った方が適切なのでしょうが。うどん(ラグマン)にチャーハン(プロフ)、緑茶(チャイ)に串焼き(シャシリク)など、日本人に馴染みやすい料理が多いようです。けれども、経済的、人的交流は非常に乏しい。比較的近い場所にあるトルコに行ってきたという人は多いですが、ウズベキスタンに行ってきたという人はあまり見かけません。ウズベキスタンはウランや石油など資源が豊富です。話によると、ウズベキスタンには中国、韓国の人が非常に多いようです。けれども日本人は非常に少ない。アフリカなどの資源のある国でも同じような現象が起きてるのは、有名ですね。単純に同様な状態であると決める事はできないでしょうが、ウズベキスタンと日本の関係を見る事は「日本の外交」を再考する一つのアプローチに成り得るのではないでしょうか。今回の研修では、ウズベキスタンと日本の関係強化についてまず考え、そこから更に一般化できる何かを考えることができたら有意義なものになるのではないかと考えています。余談になりますが、ここ一週間ほど沖縄に旅行に行っていました。勿論、同じ日本人なのですが、気質も、食文化も東京と大きなギャップを感じました。特に食に関しては、山羊、イルカ肉、豚足、海蛇、油みそなど、食べ慣れないものに多く出会いました(イルカを除いて非常に美味しかったです)。ウズベキスタンは陸続きなので、日本ほど地方ごとの差異があるとは思えませんが、上でも書いたように、こうした同国内での食文化(にとどまらずできれば様々な文化)の差異には是非とも注目していきたいと思っています。
文責 文科二類二年 福井康介
ウズベキスタンの食文化(前編)
公開日:2011年9月4日
投稿者:uzstudent2011s
どうも、遅ればせながら食文化担当の福井です。
ウズベキスタンで有名な料理をピックアップして紹介したいと思います。
まずは「プロフ」について書きたいと思います。
(左:プロフ 右:カザンで炒められているプロフ)
「プロフ」は、お祝いの席などで出る米料理で「カザン」と呼ばれる特殊な鍋で作られます。「カザン」は家庭用の小さなものから、数百人用の大きなものまで様々な大きさのものがあります。「プロフ」で米料理っていえば、みなさんご存知、あの料理名に似てるなと思った方もいるのではないでしょうか。そう、「ピラフ」です。プロフもピラフも似たような料理で、トルコではピラフ、ウズベキスタンではプロフ、ウイグル地方ではポロなどと呼ばれるようです。調理方法としては、カザンにたっぷり綿花油を入れ、お米、羊肉、にんじん、たまねぎなどをじっくり炒めるという非常にシンプルなものです。地方によって、赤いにんじんを使う地域や、黄色のにんじんを使う地域、またその両方を使う地域などがあり、同じ料理であってもその見た目は微妙に異なります。地域による見た目の違いには、盛りつけ方も影響しています。具と米をチャーハンのように混ぜてしまう地方や、米の上に炒めた野菜を盛りつける地方など、プロフを食べているだけでもその地域地域の変化を楽しめるのではないかと思います。街中でプロフを食べる場合の注意点として、なるべくその日の早い時間帯に食べるということがあります。先ほど書いたように、プロフはたっぷり鍋に油を注いで作ります。ということは、午後になると、下の方にある油に浸かったようなプロフを食べることになり、日本食を食べ慣れている日本人には少々辛いものがあるようです。
続いては、ウズベキスタンに行った日本人に大人気の「ラグマン」です。
(左:ラグマン 右:日本の肉うどん)
先に書いた「プロフ」と違い、「ラグマン」とだけ聞くと、何のことやらさっぱり分からない方も多いのではないでしょうか。ラグマン(ラグメンと呼ばれることも)は、日本の肉うどんによく似た麺料理で、讃岐うどんのようなコシのある麺が特徴です。ここでも肉としては、羊肉が主に用いられます。見た目も味も日本人が抵抗を受けない仕上がりになっているのが人気の要因ではないしょうか。内地に行くと、どんぶりのようなお椀で汁に浸ったラグマンもあるため、さらに肉うどんに似た様相を呈してきます。詳しい調理方法や材料については、このブログの初期に書いた記事を参考にしていただければと思います。
文科二類二年 福井康介
統計からみるウズベキスタンと日本比較
公開日:2011年9月2日
投稿者:uzstudent2011s
日本人はウズベキスタンについての知識が圧倒的に足りない。このことは、観光班がウズベキスタンの観光産業を日本に広める方法について話し合った時も何度も話にあがっていたし、周りの人々に「ウズベキスタンに行く」と言った時の反応を通じてもみなが感じていることだと思う。そこで今回は、ウズベキスタンの生活の実情を知るにあたって、少しでも足しになればと思って統計を持ち出してみる。統計にも多種多様のものがあるが、そのなかからいくつかをピックアップして、日本と比較することでウズベキスタンについて考察してみたい。
まずは、経済班も調べていたが、経済を図る指標になるとされるいくつかのものから。
1.インターネット普及率 日本:75.40% ウズベキスタン:9.08% (世界平均23.44%)(2008年)
最初に国際連合の専門機関である国際電気通信連合(ITU)が発表しているインターネット普及率を調べた。2008年と少し古いデータになってしまうが、日本が75.40%であるのに対してウズベキスタンが9.08%とかなりの差がでている。世界平均の23.44%から比べても非常に低い数値であることがわかる。インターネット普及率が低いということは高度に情報化された現在の社会から取り残された人々が多いともいえる。コンピューターなどの通信機器の普及率なども今後調べて、ネットインフラの現状について調べてゆきたい。
2.報道自由指数 日本:2.50(世界第11位) ウズベキスタン:71.50(第163位)(2010年)
国境なき記者団が発表している報道自由指数。数値が低いほど報道が自由に行われているとされている。第一位はフィンランドで、上位には北欧や西欧の国々が並んでいる。日本は第11位で、もちろんまだまだ課題はあるだろうが、2008年6.50→2009年3.25→2010年2.50とどんどん報道自由度数が上昇しており、日本の報道の自由は評価されているといえよう。一方、ウズベキスタンは71.50とほぼ最低ランクである。これについてJICAの企画部によるウズベキスタン共和国に関するまとめによると、
「ウズベキスタンにおいては、政府機関による情報公開が制限されているため、国際機関等にとって信頼性のあるデータが入手し難い状況となっている。政府機関から定期的に発表される統計データ或いはその関連刊行物はほとんど存在しない。これは経済データは政治的に高い機密性を要するという考えによる。政府側の目的をもって発表されるデータはあるものの、作為的な側面が大きく、定期的な定型フォーマットによるデータ公開は行われていない。例えば、国家予算・支出は国民には未だ公表されていない。このたま、世銀、EBRD、OECD等国際機関は、政府発表の数少ないデータに頼らざるを得ず、信頼性に欠けており、まだそれらのデータの間には一貫性が見
られない」
とされており、旧ソ連の影響であろうか、ウズベキスタンの情報統制という負の側面がうかびあがる。ちなみに、周辺のカザフスタン、キルギスもウズベキスタンと同じくらい報道の自由度が低いとされており、みなさんの想像通り北朝鮮:104.75、イラン:94.56、中国:84.67といった国々も自由度が低いという結果になっている。
統計からウズベキスタンを読み解こうと試みたにもかかわらず、統計が信頼できないといわれては元も子もないのだが、とりあえず統計の数値は信じることにして、次の統計を見てみよう。
3.識字率 日本:99.0%(第21位) ウズベキスタン:96.9%(第63位)(2008年)
国際協力事業団(JICA)が発表している識字率の統計である。識字率は教育指数を図る上で重要な要素で、生活の質や経済発展の指標にもなる。日本との大きな差がみられたインターネット普及率や報道自由指数とは一転、ウズベキスタンの識字率はかなり高水準にある。中央アジア諸国はカザフスタン:99.6%、タジキスタン:99.6%、トルクメニスタン99.5%と各国ともに高水準にあり、そうした他の中央アジア諸国に比べればウズベキスタンは若干低いが、アフリカ諸国や西アジア諸国と比較して経済発展の度合を考慮すれば、興味深い結果である。こうした識字率はOECD諸国並で、就学率も高いとされている。これは逆に旧ソ連の社会主義国時代から引き継いだ正の遺産なのであろうか。
4.自殺率 日本24.9(2010年) ウズベク:4.7(2005年)
よく見る統計ばかりでは見あきた人もいると思うので経済指標ではない少しマイナーな指標も取り扱う。自殺率とは10万人あたりの自殺者数を計算したものである。WHOが発表したもので、日本とウズベキスタンで調査年が違うので、正確に比較することはできないが、日本が24.9であるのに対し、ウズベキスタンが4.7とウズベキスタンの自殺者が少ないように思われる。一般的に日本と韓国は自殺率が高いとよくいわれるが、WHOの統計によると確かに韓国は2位、日本は5位で自殺大国といえよう。自殺を禁じているイスラム諸国は自殺率が低い傾向にあり、ウズベキスタンもイスラム教の影響を受けた結果といえそうだ。ただし、隣国のカザフスタンの自殺率が26.9で世界第三位にランク付けされているのが非常に興味深い。こうしたウズベキスタンとカザフスタンの自殺率の差の要因をひきつづき調査してゆきたい。
5.平均寿命 日本:82.7歳(1位) ウズベキスタン:67.7歳(127位)世界平均67.6歳
2005年から2010年にかけての平均寿命についての調査結果である。日本が世界第一位の平均寿命を誇る長寿国であるが、それに対してウズベキスタンの平均寿命がどのくらいなのか調べてみた。 上記のとおり、ウズベキスタンは世界平均より少し上の67.7歳で、これには水の衛生状況が悪かったり水不足だったりすることが大きく関連していると思われる。
最後であるが、ウズベキスタンの軍事についても少しふれておこう。ウズベキスタンの軍事力は以下の通りである。
独軍が駐留
ウズベキスタンの経済体制に関する小考
公開日:2011年9月2日
投稿者:uzstudent2011s
前回まではブックレポートや、ウズベキスタンでの日本紹介の為のFWについて書いた。しかし私のブログ記事ではまだウズベキスタン自体について記していなかった。そこで今回はウズベキスタンの経済について記して見ようと思う。
ウズベキスタンの基本情報を述べると、人口は2600万人でCIS諸国の中で最大の人口を誇っている。産業としては、特にソ連時代から綿花産業に代表される軽工業が盛んである。
ソ連崩壊後、多くの国が急進的な経済改革を行ったことで多くの国で混乱が生じた中、ウズベキスタンのカリモフ大統領は共産主義体制から資本主義体制への「漸進主義」を掲げ、他のCIS諸国とは異なる独自路線を歩んできた。この政策の中では、共産主義体制から資本主義体制への緩やかな移行が図られた。例えば、他のCIS諸国が経済的に混乱する中、ウズベキスタンは比較的堅調な経済を維持していた。例えば、ソ連崩壊後のGDP堅調は比較的堅調であったし、CIS諸国の中で大きな影響を及ぼしているルーブルの暴落(ルーブル危機)が起きた時にも、ウズベキスタンへの影響は限定的であった。
また当局による経済介入は貿易の抑制につながったため、国内産業の保護が実現した。具体的には、ウズベキスタンにおいて農業は貿易抑制による恩恵を受けた。
しかしこうした状況にも近年、問題が起きていることも事実である。ウズベキスタンとる漸進主義が、ある種の限界を示しているということだろう。では一体、どのような点で漸進主義の限界が現れているのだろうか?
その一例として挙げられるのが、国と企業の関係である。政府は漸進的に資本主義的な市場へ移行する方策として、企業の管理システムの変更や、所有法に代表されるような、
政府は資本主義的な市場へ移行する方策として、管理システムの変更、「所有法」に代表される私有化促進の法体系、価格自由化などの改革を行った。
しかしながら実際は、様々なところで資本主義市場に移行したとは言えない側面がある。例えば、不当な価格付けを防ぐとの名目で政府が市場介入を行ったり、政府が規制を働かせる事によって事実上貿易を制限したりしている。また、株式会社化が未完了であるなど、まだまだかなりの、国による統制が存在していると言える。
また漸進主義の弊害は、金融部門においても存在している。ウズベキスタンでは長期に渡って、公式レートと非公式レート(所謂闇レート)が存在していた。国営企業の中には、2つのレートの価格差を利用して利潤を得ていた企業も多かったため、輸出状況が改善しないなど多数の問題が発生していた。
現在ではこうした2つのレートは統一され、IMF8条国にもなった。しかしながら現在でも非公式な為替レートが存在しているとの情報もある。こうした背景には、ウズベキスタンの通貨であるスムが安定していないという要因がある。
金融部門における他の問題点としては、銀行制度が未整備で、多くがまだ国有銀行であることも挙げられる。こうした背景には、まだまだ制度改変が進んでいないということに加えて、銀行制度を整備していくような人材が不足していることも挙げられている。こうした点に関しては、今後日本のJICAなどが積極的に支援してことのできる分野であると言える。
以上のように、政府と企業の関係、金融の2つの側面を見ただけでも、まだまだウズベキスタンが未成熟な経済体制を敷いていることがわかる。こうしたことが事実であるかどうかを、ウズベキスタンに訪問した際には確認してきたいと思う。
(文責:文科二類2年 西田夏海)
祝日に見るウズベキスタン文化
公開日:2011年9月2日
投稿者:uzstudent2011s
ウズベキスタンで行うプレゼンテーションの準備をみなさん各自進めているであろう。そのなかでも私は日本の文化・慣習・行事などを春・夏・秋・冬の四季にわけて紹介するグループに所属している。
日本の行事についていろいろと調べているなかで、ふと日本の「祝日」が日本の文化を象徴的に表していることに気付いた。祝日をみると、建国や独立といった国の歴史的事件やその国で大きな意義を持つ宗教的慣習が如実にわかる。
ということは、ウズベキスタンの祝日とその祝日が祝日たる由縁を調査すればウズベキスタンの文化やウズベキスタンの人々が重要視している行事について少しは理解が深まるのではないか。そう考えさっそくウズベキスタンの祝日について少し調査を試みた。
ますは、ウズベキスタンの祝日と比較しやすいように参考までに日本の「国民の祝日」を以下に記す。
1月1日 :元日 年のはじめを祝う。
1月の第2月曜日:成人の日 おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます。
2月11日:建国記念の日 建国をしのび、国を愛する心を養う。
3月下旬の春分日:春分の日 自然をたたえ、生物をいつくしむ。
4月29日:昭和の日 激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。
5月3日:憲法記念日 日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する。
5月4日 :みどりの日 自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ。
5月5日:こどもの日 こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。
7月の第3月曜日:海の日 海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う。
9月の第3月曜日 :敬老の日 多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う。
9月下旬の秋分日:秋分の日 祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ。
10月の第2月曜日:体育の日 スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう。
11月3日:文化の日 自由と平和を愛し、文化をすすめる。
11月23日:勤労感謝の日 勤労をたっとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう。
12月23日:天皇誕生日 天皇の誕生日を祝う。
(内閣府HP「「国民の祝日」について」より)
次に、ウズベキスタンで祝日とされているのは以下である。
1月1日 : 新年 Новый год
3月8日 :女性の日 День женщин
3月21日 :ナウルーズ Навруз
5月9日 : 戦没者慰霊の日 День памяти и почестей
8月30日 : ルザ・ハイート(断食明け大祭) Руза хайит
9月1日 : 独立記念日 День независимости
10月1日 :教師の日 День учителя и наставника
11月6日 : クルバン・ハイート(犠牲祭)Курбан хайит
12月8日 :憲法記念日 День Конституции
(JETRO日本貿易振興機構HP「海外ビジネス情報 ウズベキスタン 祝祭日より」)
上記の日付は2011年のデータであり、春分の日にあたるナウルーズやラマダーン終了日に行われるルザ・ハイートは年によって日付が変わることもある。
1月1日に新年を祝うことや、春分の日を祝うこと、憲法記念日を祝うことなどは日本との共通点であろう。ただし、日本の場合には各行事のなかでも新年の行事に重きが置かれるのに対して、ウズベキスタンで重要視されるのは春分の日ナウルーズである。ナウルーズはペルシア語で「新しい日」という意味で、中央アジアからアフリカに至る広い地域で祝われている。ウズベキスタンでは3000年以上もの伝統をもつ行事であるようだ。長い冬を耐えて乗り越えて、やっと暖かくなり木々も目覚め始めるこの時期は農業的にも重要な意味を持ち、各地で音楽や舞踊のイベントが開かれるなど盛大に行事が行われる。家庭でも親戚中が集まって伝統料理の「スマラク」を作って食べる。
ほかにもラマダーン明けのお祭りであるルザ・ハイートや犠牲祭であるクルバン・ハイートはウズベキスタンの「イスラム教」的側面が強く感じられる祝日である。こうしたイスラム祭のときにはお祈りのあとに施しをあげたりもらったりする習慣があるようで、こうしら「施し」の文化に日本との違いを強烈に感じた。
興味深いのが、「女性の日」が存在することである。「女性の日」は国際婦人デーとも呼ばれ、女性のための祝日である。「女性の日」には男性が女性になにかプレゼントを贈る習慣がある。プレゼントはたいてい花であることが多い。日本でも、女性が男性にプレゼント、たいていはチョコレートを贈る行事、バレンタインデーが存在しており、少し似ている。ただしバレンタインデーは女性が好きな男性に自分の気持ちを伝えるという側面があるが、ウズベキスタンの女性の日もそういう側面があるのであろうか。とにもかくにも、この日は一年で一番花が売れるため、街の中心部のバザールには花屋の露店が立ち並ぶ。花の需要が多いため、商売の原則通り花の値段も高騰する。もし知り合いの女性みんなに花を贈るとしたら、男性は出費に頭を悩ます一日になりそうだ。
今回ウズベキスタンを訪問する祭は祝日を経験することはできないが、今度ウズベキスタンを訪れる機会があれば、祝日を経験しウズベキスタンの人々とともに祝日を祝ってウズベキスタンの文化に触れたい。
文科二類2年 斉藤江里
マハッラの移り変わり
公開日:2011年9月2日
投稿者:uzstudent2011s
私は前回の記事では、「マハッラ」とはどういったものであるかについて書き、マハッラの住民同士のつながりの強さ、助け合いの精神は特徴的であると述べた。しかし、そういったマハッラの伝統的な要素は時代と共に変化している。今回の記事ではマハッラ内における変化について書いていこうと思う。
マハッラについて考える場合、帝政ロシア時代、ソ連時代とソ連崩壊後から現在の大きく3つに分けて考えることができる。今回の記事ではその中でもソ連時代とそのソ連崩壊後のマハッラについて書く。
まず、時代の変化とともに政府がどのようなことをしたか、次にその影響を考えようと思う。
ソビエト政府によりソ連が始まる前にマハッラが行っていた税の徴収や治安の維持などの各地の管理の権利が奪われたことや、集団農場(コルホーズ、ソフホーズ)の形成によって、行政面と経済面でマハッラの力は弱まった。しかし、ソ連以前から存在していたマハッラを完全に廃止することは、ウズベク人の反感が大きいと考えたソ連政府はマハッラを残し、それをソ連教育推進の為に利用しようとした。このように、ソ連時代には政権はマハッラに対して二重政策を行った。ソ連教育推進の代表的な例として、前回の記事でも紹介したチャイハネをソビエト政権への理解を深める場へとするために「赤いチャイハネ」に変えたり、ソビエトを支持する者を長老に認定し若者への指導をさせたことが挙げられる。そして、マハッラの持っていた権限はソビエト政府により徐々に奪われていき、ソ連の終わりごろにはマハッラの役割は政府機関の仕事の補助としかみなされなくなった。
ソ連崩壊後、ウズベキスタン政府はマハッラを保護すべきウズベキスタンの伝統と認識したため、マハッラを組織化し、予算や人材、任務などを与えて公式な組織とし、ソ連時代にはコルホーズやソフホーズが支えてきたインフラ、施設、住民生活などを市場経済の導入によりマハッラ運営委員会の負担とした。
ソ連時代の政策により、20世紀初頭に宗教の次に大事と考えられていたマハッラの社会における地位は1960年代のインタビューで五番目になったことからもわかるように確実に下がった。しかし、そういった政府からの抑圧の影響があったにも関わらず「ガプ」や「グザル」、「チャイハネ」、「ハシャル」などの仕組みやマハッラのモラルや教育的役割、イスラーム的な慣行はソ連時代を通して確実に受け継がれていた。これはマハッラ内の伝統的教育がしっかりしていたためであると考えられる。そういったソビエト政府の影響以外にマハッラに大きな影響を与えたのは第二次世界大戦と1966年に起きたタシケント大地震であった。第二次世界大戦の時にロシア系住民がウズベキスタンの特に新市街地に移住してきて、その人々が現地の人々の考えに影響を与え、マハッラの形も変化していった。タシケント大地震では、マハッラが最も支持されていたタシケントの旧市街が破壊され、旧市街の多くの住民は新市街へと離散していったことと、タシケント再建のために全ソ連から人々が集まりそのまま住みついたために、伝統文化が更に変わった。このようにソ連の政策と戦争や地震などが合わさり新市街地では特に顕著にマハッラの存在感は薄くなっていった。
ソ連崩壊後は政府からの抑圧はなくなった。しかし、公式化されたマハッラ委員会では、規模が大きく広範囲を管理しなくてはいけないにも関わらず与えられる財源が少ないことや、責任感から働く伝統的なマハッラとは異なり仕事をこなす職員的な存在になったことで、賄賂などの不正が横行していてお金のある人が助けて貰え、ない人の頼みは聞いて貰えなくなったとも言われている。また、マハッラが公式機関になるとマハッラ内の活動への参加が義務付けられる可能性が出てきている。これは各自の自由意思・利益に基づいて参加してきたマハッラの伝統に反することである。このようなことと欧米の文化の流入などにより、マハッラに対する思い入れは若い世代から弱くなっている。
時代の変化と共にマハッラの役割、マハッラに対する住民の思いは変化している。今、ソ連時代を生き残ったマハッラが国家行政機関となりつつあるが、マハッラは住民の自由意思により行われてきたからこそ長い年月ウズベキスタンで機能してきたと思う。これが国の下部組織になると、マハッラの住民助けが以前のような自発的な意思に基づく温かみのあるものではなく、行政サービスの一環となり、ハシャルなどのマハッラに見られる良さがなくなるのではないかと思う。
公式化されて間もないマハッラの役割はこれからもどんどん変化していくと考えられる。住民間に漂うマハッラ内の不正に対する不信感の排除や、マハッラを国家機関の一部とするか否かの決断などウズベキスタン政府がこれからどう対応していくのか見ていこうと思う。
現地に行った際には、ウズベキスタンの学生に彼らがマハッラをどのように思っているかについて直接尋ねてみたいと思う。私たちと同世代のソ連崩壊後を生きている彼らは欧米文化の流入やウズベキスタン政府のマハッラ政策に最も影響を受けていると考える。そのため、彼らの考えがこれからのウズベキスタンにおけるマハッラを考える際に役立つのではないかと思う。
参考文献:「マハッラの実像―中央アジア社会の伝統と変容」 ティムール・ダダバエフ 東京大学出版会
(文責:理科二類二年 栗原)
観光業について調査するにあたり
公開日:2011年9月2日
投稿者:uzstudent2011s
なぜ観光業なのか。それは比較的アプローチのしやすい、文化交流および経済の活性化の術だと考えるからである。この夏休みを利用して、日本や世界各国の観光地をいくつか見てきた。本研修を終えた時点で、比較を交えながら自分なりの考察と提案ができれば、と思う。
一般にこの類のサービスは、売店やレストランをはじめとする現地の雇用創出、およびホテル建設等の二次的な興業効果が期待され、同時に貴重な外貨獲得源でもある。一方、観光地化することでごみ除去、インフラ整備等の必要性を生じさせ、とりわけ自然遺産においては環境の悪化も懸念事項となりうる。そこでまず政府当局がすべきことはこういった利益と費用の比較衡量、ということになるのが妥当だろう。
これをまずベースのモデルとしたうえで、次なるステップとしては当然現地の実情を考慮していくことになるわけである。時として異次元的である観光という産物がもたらしうる弊害も地域により様々であろう。
ガイドブック等を参照した感覚に頼れば、ウズベキスタンをタシケント・サマルカンド・シャフリサーブス・ブハラ・ヒヴァ・フェルガナ・コーカンド程度に観光地を区分していくのがスタンダードかと思われる。その際例えば、新市街を擁し、一定程度のサービス業および外部の人間の受け入れ態勢が整っていると思われる首都タシケントと、伝統的なマハッラの影響力が根強く残るフェルガナ盆地付近(ティムール・ダダバエフ「マハッラの実像ー中央アジア社会の伝統と変容」2006年、東京大学出版会173頁)とで観光業を同一視するのはいささかナンセンスとなる可能性がある。陶器やシルクといった名産品は観光客の目を引くだろうが、シルダリアの流域に広がるオアシス農業豊かな田園地帯がそこには伝統的に存在しているからだ。雇用の創出が農業から観光業への人的資源の流用であるとするとき、それが農業にとって不利益たりうる。(ジェームズ・マック「観光経済学入門」2005年、日本評論社143頁)また、相互扶助的性格も帯びる地域共同体の中において賃金が高めに設定される観光業とそうでない農業との間の格差は不協和音となり、よろしくないかもしれない。
(余談)タシケントに美術館・博物館が集積している様子は、ベルリンの博物館島を想起させるが、日本で得られる情報だけから察するに一つ一つの館がさほど魅力的ではなく観光向けとしてはあまり効果的ではない気もするのだが。
各々の地域特性を重視した観光スポットを設定した後で、ウズベキスタンという国の吸引力を高める工夫が必要になってくる。知名度をどう高めていくか、という議論は中央アジア地域あるいはもっと広範に旧ソ連地域ないしイスラム文化圏という括りの中でどのように差別化し、ブランド化を徹底させていくか、という話に帰結する。そこには国家の指針のような政治的問題が少なからず関与してくることや、国家主導ではどうしても産業は硬直的になりやすい、という特徴からなかなか難しい話でもある。加えて英語教育や近代的契約の普及をはじめとする対外的コミュニケーションの振興、航路の整備など問題は山積する。それでは少し手が出せないのでレイヤーを落として見ていくと、民間レベルだと例えばパック旅行のメリットを活かすこともできる。一般人がウズベキスタン、あるいはその都市をピンポイントで選好するケースは珍しいと言ってよく、個人旅行で欧米を旅する際に最低限のホテル等の予約だけ済ませて、後はノリでプランニングする、というような手軽さは無い。そこで、旅行会社がよく知られた国との旅行とセットにしたり、見どころを明瞭にする(典型的なのが世界遺産のアピールである)ツアーを組み、提示する、といった方法は今すぐにとることができそうなものである。
受け入れ側の意識の養成、ということも大事なファクターであり、一般人の現状の認識その他について調査できれば、と思っている。
(文:文科Ⅰ類2年 野崎拓洋)
文化の交節点としての中央アジア(後編)
公開日:2011年9月1日
投稿者:uzstudent2011s
14世紀末、中央アジアのトルコ人居住地域とイラン高原のイラン人居住地域にまたがるティムール帝国が成立してことによって、イラン=イスラム文化がトルコ人にも伝えられ、トルコ人を主体とするイスラム文化が形成された。トルコ人のイスラム化による文化の形成は11世紀のカラ=ハン朝に始まるが、それが開花したのがティムール朝であった。その中心と帝国の二つの都、サマルカンドとへラートが繁栄した。これらの都市には広大なモスク(イスラーム寺院)やマドラサ(学校)が建設され、さらにまた、宮廷では細密画(ミニアチュール)が描かれ、それとともにアラビア語をさまざまな書体で表現するアラビア書道が発達した。また文学ではすぐれたトルコ語(チャガタイ=トルコ語)の文学作品が生まれた。ティムール朝のトルコ=イスラム文化の多面性のひとつに、ウルグ=べクがサマルカンドに建設した天文台にみられるような独自の科学の発展も見られた。
今回はミニアチュールとチャガタイ=トルコ語について注目したい。ミニアチュールはもともと偶像崇拝の禁止されているイスラム世界で、コーランなどの写本を飾る装飾として生まれた。モンゴル時代のイランのイル=ハン国で中国絵画の影響を受けて始まり、ティムール朝の宮廷で最高の水準に達した。特にティムール朝末期のスルターン=フサインのヘラートの宮廷には、イスラーム世界が生んだ最高の画家と言われるビフザード(1450頃~1534)をはじめとする多くの画家が活躍した。このようにミニアチュールは中国という東方文化の影響を得て生まれた文化の代表的なものと言えるだろう。
次にチャガタイ=トルコ語について。中央アジアにおけるトルコ語の形成には、11世紀のカラ=ハン朝のカシュガリーによる『トルコ語辞典』の編纂から始まるが、このティムール朝時代のヘラートで活躍したアリシ―ル=ナヴァーイーが、「チャガタイ=トルコ語」を文章語として完成させ、現在「ウズベク文学の祖」として顕彰されている。またムガル帝国の創始のバーブルの自伝である『バーブル=ナーマ』も、すぐれたトルコ語文学として重要である。文化交流のなかで正式な言語の形成が行われたことは非常に興味深い点だと感じた。
シルクロードを中心として東西交流が盛んになり、後のティムール帝国によってサマルカンドをはじめとする中央アジアは繁栄を極めた。それらの交流を受けて作られた新たな文化は後の世界の文化的発展に大きく寄与したと言えるだろう。またモンゴルとトルコ、イスラムにイランという異なる様々な文化を混合することに成功した中央アジアという地の特殊性に私は非常に興味を持った。今回自らの足で直接中央アジアの地を踏みしめるに至っては、ティムールが夢見て実現した「青の都」に身を置きつつ、かつての豊かな文化交流に思いを馳せ、少しでもそれを肌で感じることができればと思っている次第である。
<参考文献>
・草原とオアシスの人々(人間の世界歴史) 護 雅夫・遊牧国家の誕生 (世界史リブレット) 林 俊夫
・西アジア史2 イラン・トルコ 新版世界各国史・モンゴル帝国と長いそのあと 興亡の世界史 杉山 正明
二年文科一類 内藤めい
文化の交節点としての中央アジア(前編)
公開日:2011年9月1日
投稿者:uzstudent2011s
「中央アジアってどんなところ?」
私がこのゼミに興味を持ち、学期を通じてこの地域について学ぶ端緒となったのはこの一つの素朴な問いであった。地理的な情報ばかりが頭を巡る中、突発的に「文明の交節点」という単語が閃く。普段生活していても中央アジアに接しその存在を強く意識することは無に等しかった私にとって、唯一とも言える接点は自分が学んできた世界史の教科書であった。この「文明の交節点」というタームに強く惹かれた私は、今までに学んできた中央アジアの歴史を軽く浚うとともに、教科書で取り上げられることで日本人学生に植えつけられているイメージを探りたいと考えるに至った。
まず一番に中央アジアの歴史と聞いて浮かんだのが「シルクロード」である。南ロシアの草原地帯から、カザフ高原、天山山麓、モンゴル高原、長城地帯を結ぶ大ステップ地帯をつらぬく最も古い東西交易路である。スキタイ、鮮卑、フン、アヴァ-ル、マジャール、突厥、ウイグル、モンゴルなどの遊牧騎馬民族の活躍舞台となっていた。草原の道では、機動力を利用した騎馬民族が東西に移動して支配権を争うと同時に、中継貿易も担っていた。しかし商業だけでなく彼らは情報の収集に熱心で、積極的に新しい文化を受け入れようとしたため、東西文化交流のうえで、直接・間接に大きな役割を果たした。南方のオアシス世界の定住民(ソグド人など)が貿易を直接担っていたのだが、強力な軍事力を持った遊牧騎馬民族が協力したことでスムーズに貿易を行うことが可能になったのである。
このシルクロードが歴史上重要視されているのは、彼らによって中央アジアがヨーロッパと中国を結ぶ文化の交節点とたし得た点である。具体的には世界史で学ぶ通り、中国からは特産の絹が、西からは玉や宝石、ガラス製品などが運ばれた。またインドの仏教やイランのゾロアスター教(祆教)マニ教、ローマで異端とされたネストリウス派のキリスト教(景教)やイスラム教(回教)などの宗教も到来し、一方中国からは鋳鉄技術や養蚕、製紙法が西方へ伝わった。
そしてこのシルクロード世界は13世紀のモンゴル帝国の成立によって、東西交流が一段と盛んになった。
続いて中央アジアのモンゴル=テュルク系軍事指導者であるティムールの存在でいよいよ交流は最盛期を迎える。特にその文化交流の要衝としてサマルカンドが栄えるようになった。サマルカンドは13世紀にモンゴル軍の侵攻によって一時廃墟と化していたが、ティムールによって再建された。彼はチンギス=ハンと何かと比較されることが多いが、チンギスに対して文化を重要視していた。彼はどこにもない美しい都市を目指し、各地の遠征先からすぐれた技術者や芸術家たちを連れて帰った。サマルカンドには中国の陶磁器とペルシアの顔料が出会って誕生した「サマルカンドブルー」とよばれる「青の都」が誕生した。モンゴルという精神的基盤にトルコという民族的基盤、そしてイスラム宗教に対する信仰に基づき、支配したイランの文化を吸収し、この地にティムール朝文化が花開いたのだった。
補足的にこの後のサマルカンドの歴史を概観しておくと、14~15世紀にティムール帝国の首都となった後諸王国がサマルカンドを巡って争奪を繰り返すようになった。(これには後のムガル帝国の始祖となったバーブルも参加している。)そして1500年にシャイバーニー長のジョチ・ウルス系のウズベク系が征服して戦乱を収めた。しかし18世紀中ごろにウズベク諸政権内部の対立や諸部族の抗争、アフシャ―ル朝(イラン)の侵攻をうけて荒廃してしまった。続く1868年ロシア軍による占拠をうけロシア領トルキスタンに編入。元来よりイラン系ペルシア人が多かったがソビエト連邦によって1924年ウズベク・ソビエト社会主義共和国の首都となった。このようにティムール朝で繁栄を極め文化交流が盛んに行われていたサマルカンドは15世紀以降騒乱が続きその求心力が失われてしまったことはとても残念である。
二年文科一類 内藤めい