中央アジアの歴史小話1
公開日:2011年8月12日
投稿者:uzstudent2011s
始めに
このゼミにおいて私は中央アジアの歴史に興味を持ち、調査を行ってきた。中央アジアはシルクロードの通り道として世界史に名を馳せており、アレクサンドロス大王やイスラーム軍、チンギスハーンといった他地域の侵攻を受け、様々な民族が入り混じって覇を競い、また文化的にも他民族の影響を受けて変容を繰り返してきた。しかし、このように非常に魅力的な研究素材を多く内包しているにも関わらず、資料の少なさもあってか中央アジアの歴史研究はあまり進んでいないのが現状であり、高校の教科書等での扱いも非常に少ない。このような研究対象としてのフロンティア性に魅かれ、私は中央アジア史を調べるに至ったのである。
とはいうものの、中央アジアの歴史は前述のように様々な要素を含んでおり、短期間に深く、且つ体系的に知るにはいささか困難を伴う代物である。したがって、中央アジアの歴史を俯瞰するであるとか、シルクロードの通商史において中央アジアの位置づけを行うといった大それたことはせず、いくつかの小さなテーマを設定し、それについて調べるという手法をとってきた。今回はこのブログでそれらのうちいくつかを紹介したいと考えている。
始めにことわっておくが、これらのテーマは各々がかなり狭い範囲を対象としており、これらの調査の価値を実感できない人が多く出てくるのも至極当然のことである。しかしながら、イスラームにおいて「神は細部に宿る」とも言われるように(かなりこじつけではあるが)、このような地味な調査も歴史を理解するうえで重要になってくるということを強調し、読者各位のご理解を頂きたい。
では、具体的な調査内容に入ろう。一つ目のテーマは汗血馬についてである。
大宛国①
汗血馬について語る前にまずは大宛国について述べねばなるまい。大宛国とは現在のウズベキスタン、タジキスタン、キルギス共和国にまたがるフェルガナ盆地に紀元前二世紀ごろから存在したとされる国である。この国自体は中央アジアにおいて無数に興亡した小国家のひとつに過ぎず、前漢の張騫がその存在を紹介するまではほとんど知られていなかったほどであり、詳細な歴史についてはわからないことだらけである。そんな国を世界史において一躍有名にしたのが、他ならぬ汗血馬である。
汗血馬
ではその汗血馬とはいったいどのような馬であったのか。汗血馬とは読んで字のごとく「血のような汗を流して走る馬」のことであり、(もちろん誇張であろうが)一日に千里(約500km)も走ると言われている。大宛国はこの汗血馬を多く産出したとされ、先述の張騫が汗血馬を大宛国の存在とともに武帝に報告すると、良馬の不足に悩んでいた武帝はこの類まれな名馬を強く欲するようになり、大宛国にこれを求め、最終的には軍をもって服属させるまでに至っている。また、三国志演義に登場する赤兎馬もこの汗血馬をイメージしたのではないかとされる。
汗血馬の正体
このように中国史に登場してくる汗血馬は、実際はどのような馬であったのだろうか。常識的に考えれば血の汗を流す馬が実際に存在したとは考えにくい。この「血の汗を流す」という部分に関してはいくつかの説が挙げられているものの結論は出ていない。ひとつは馬の毛色によって、流れた汗が血の色のように見えたというものである。これは実際にそう見えることがあるということから有力であるように思われる。もう一つの説として、血汗症という症状を起こす寄生虫によって実際に血の汗を流していたというものがある。この説は趨勢であるようだが、汗血馬が血汗症であったという証拠はなく、今となってはそれを知る術はない。他にも寄生虫によって表皮に滲んだ血液が汗と混じって見えたといったような説もあり、想像欲を掻き立てられる。「一日に千里を走る」という部分は間違いなく誇張であるにしても、寄生虫がついた馬が痛みに刺激されて通常より速く走るということはあるようだ。
伝説の名馬は今どこに
様々な学説が飛び交う汗血馬だが、現代には存在するのか。自分が調べた限りにおいては、現在フェルガナ盆地周辺ではあまり馬の飼育は盛んではないようで、この地がかつて名馬の里であったとされるのに対し、今では馬の価値もそこまで高くないのではないかと思われる。このあたりについては実際にウズベキスタンで馬の現状についての軽い調査をしてみたいものである。一方で、フェルガナ盆地とは異なる場所で、汗血馬の子孫とされる存在を見ることができる。主にトルクメニスタンで飼われている「アハルテケ」という種の馬がそれである。トルクメニスタンは現在でも馬の名産地として有名であり、アハルテケは同国の国章にも描かれている。この種は小柄であるが美しい体つきをしており、4152kmを84日で走破した記録を持つほど走りに長けている。ここで問題になるのはもしアハルテケを汗血馬の子孫とすると、大宛国の位置そのものがフェルガナ盆地よりもさらにトルクメニスタン側にあった可能性が出てくる点である(フェルガナとトルクメニスタンの間にはかなりの距離がある)。これは大宛国の位置がそもそも確定していないためであるが、このあたりは次回のブログの内容の布石とし、今回は汗血馬について述べたところまでで筆をおこうと思う。
文責:文科二類二年 藻谷