中央アジア散歩 2011年夏学期 全学自由研究ゼミナール

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レギスタン広場の歴史と建築

公開日:2011年8月30日

投稿者:uzstudent2011s

レギスタン広場はウズベキスタンの古都サマルカンドに位置する観光名所の一つである。名前はペルシャ語で「砂の場所」を意味する言葉であり、サマルカンドの歴史において中心的な存在であった。元々この地は商業地であったが、そこの様相を変えたのが15世紀に中央アジアを支配したスルタン、ウルグ・ベクである。

中央の広場を囲むのは3つのマドラサである。正面から見て左側に位置するのが1420年に建てられたウルグ・べク・マドラサ、それと向かい合うように右側にあるのが1636年に完成したシェル・ドル・マドラサ、そして中央奥には1660年にできたティリャー・コリー・モスクマドラサがある。これらのマドラサは200年以上に渡って別々に建てられたものだが、建設当初から計画されていたかのような景観を作り出している。これは「コシュ」と呼ばれる都市デザインの手法が取られているからである。「コシュ」とはウズベク語で「つがい」を意味し、レギスタン広場のシェル・ドル・マドラサのように、既存の建物とつがいになるよう向かい合って建てたりすることで整理された街並みにする方法である。

マドラサとは「学ぶ場所、学校」という意味で、9世紀以来各地で建てられたイスラム世界の教育機関である。教育は二つのコースに分かれていて、コーランの暗唱や解釈などを学ぶコースと学者を育成するためのコースがあった。

マドラサで教えられていた科目は主にアラブ語、タフスィール(コーラン解釈学)、シャリーア(イスラム法)、ハディース(預言者ムハンマドの言行録)、論理学、ムスリム史である。

マドラサはイスラムを広く伝える以外にも、孤児や貧しい子を教育するという使命を持っていた。また、中には女性を受け入れるものもあったという(無論、男女別学だが)。

レギスタン広場のマドラサを一つずつ紹介していく。最初に建てられたのが1417年から3年間かけて完成したウルグ・ベク・マドラサである。ティムール朝第四代君主ウルグ・ベクの命によって建設された。中庭にはモスク・講義室・寄宿舎があり、学生が生活していたフジュラが約50室存在する。ウルグ・ベクはこの他にも2つのマドラサの建設を命じたが、ウルグベク・マドラサが建築・教育機関の点において最も優れていた。17世紀までマドラサとして機能した後、一世紀以上は穀物倉庫の役割を担っていたが、20世紀前半にはまた教育機関として利用されるようになった。

次に建てられたのがウルグ・ベク・マドラサの「つがい」、シェル・ドル・マドラサである。シャイバニ朝君主ヤラングドゥシュ・バハテゥルの命により1619年から1636年にかけて建設された。形はウルグ・ベク・マドラサを模して設計されているが、君主の権力を誇示するため装飾が派手になっている。「シェル・ドル」は「獅子」という意味を持っており、イスラム建築には珍しく動物の絵が正面に描かれているのが特徴である。イスラム教では偶像崇拝が禁止されているため人物や動物画は基本的に描かれないが、シェル・ドル・マドラサには白い鹿を追う獅子と、その背景に顔のついた太陽が描かれている。

最後に、1646年着工、1660年完成のティリャー・コリー・マドラサが二つのマドラサの奥に建てられた。このマドラサは当時のサマルカンドの繁栄を示しており、「金で飾られたマドラサ」という名前の通り豪華な金の装飾が施されている。17世紀に損傷したビヒ・ハーヌム・モスクの代わりとして、メッカを向いたモスクを兼ね備えている。

文責:文科二類2年 末松

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