中央アジアの歴史小話2
公開日:2011年8月28日
投稿者:uzstudent2011s
大宛国の首都
近代以前に中央アジアに興亡した数多の国の歴史には不明な点が多い。このことは前回の記事でも述べたことであるが、今回はそのような謎を解明するために行われた研究の一例として、前回の記事で触れた大宛国についてもう少し掘り下げようと思う。例によって細かいトピックになってしまうが、どうか勘弁していただきたい。今回のテーマは大宛国の首都についてである。
大宛国の首都の所在は明らかでなく、これについて学者たちが様々な説を主張し、その論争は現代に至ってもなお収束のめを見ない。これからその論争の過程を軽く見ていく訳だが、その前に大宛国についていくつか補足しておこう。
大宛国②
大宛国はイラン民族の定着農耕社会であり、人口は数十万の規模であったとされる。その位置については前回述べた通り諸説あるが、ここではフェルガナに存在していたと仮定しよう。大宛とは「広大なオアシス」の意であったらしく、ぶどう酒や馬が主産物であった。「史記」の記述によれば、前述のように、張騫の報告によって汗血馬の存在を知った前漢の武帝はこれを強く欲し、使者を大宛国に送ってこれを求めるも、すでに大量の漢の物産を得ていた大宛の王はこれを拒否、怒った武帝は大軍を派遣し、二度の攻撃の末に宛都と記される「弐師城」を攻略させ、服属せしめた。
弐師城と貴山城
武帝の軍によって陥落した弐師城は、宛都と記されていることから、大宛国の首都であったことは疑いようがない。しかし一方で「漢書」では大宛国の首都は「貴山城」であったと書かれている。ここで様々な憶測が飛び交うことになる。この二つはまったく違う場所でどちらかが誤った記述なのか、はたまたひとつの首都が時代によって異なる名前で呼ばれていたのかといった具合である。この疑問に対する明確な結論は未だ出ていない。しかしながら、現在では二つの都市がどちらも大宛国の都を指しているとの見方が趨勢であるようなので、ここにおいてもこれを前提に話を進めていくこととしたい。
首都はどこか
ここまで見てきた分だけを見ても、大宛国は不明な点が多くあることは明らかであろうが、ここでさらに別の疑問が出てくる。大宛国の首都、すなわち弐師城ないし貴山城は現在のどの都市に比定されるのか、というものである。これに対する論争は一時期非常に盛んになり、多くの学者が「弐師」や「貴山」がどのような音に対して当てられたものかという考察や、「史記」「漢書」の記述から地形や川の流れなどから位置を推測する作業などを通してこの謎に包まれた首都の位置を解明しようと努力を重ねてきた。各々の学者が主張する首都の位置はフェルガナ地方を中心に広く散らばっており、それらすべてをここで紹介するのは不可能である。そのためここでは私が興味を持った二つの説を紹介しよう。
A・N・ベルンシュタムの主張
ソ連の考古学者ベルンシュタムは、オシュの郊外に馬の岩壁画を発見し、これを有力な手がかりとして、そこから遠くない位置にあるオシュ河岸の廃墟マルハマトを首都に比定している。彼は問題の岩壁画に描かれた馬の外観がモンゴリアや西アジアのそれと異なる特徴を持っていることを指摘し、これこそが汗血馬を描いたものであり、岩壁画が描かれたこの場所が馬の繁殖を願う信仰の場であったというのである。したがって、首都はここからそう離れていない位置に存在していたと推理し、遺跡発掘の結果堅固な城壁を持っていたことがわかった廃墟マルハマトにたどり着いたのである。ベルンシュタムは発掘報告において、遺跡で発掘された物品が紀元前2~3世紀のもので大宛国の時代と矛盾しないことや、中城や外城の存在が確認されたことも述べている。この説明で筆者は大いに納得したのだが、これだけの調査をもってしても、マルハマトを首都に比定する確固たる証拠はないのである。
「ニサ=弐師」説
もうひとつ紹介する学説は、「弐師」をギリシア人の言う「ニサ」という音に当てた文字であるとする説である。この説は西洋において有力視されており、19世紀から主張されている。一世紀のギリシア人地理学者ストラボンはニサをアムダリヤ川の南西にあったとしている。そうであるとするとニサはフェルガナに存在しなかったことになるが、これも確証はない。それではこの話をもう少し掘り下げてみよう。
ニサはギリシア神話において酒神バッカスがニサのニンフたちに育てられたというエピソードからきているが、この地名はアレクサンドロス大王の遠征以前からこの地域にいくつも存在している。それらがすべてこの神話からきているとも限らず、たかが二音節のため偶然の一致とも考えられる。ニサという地名が酒神とかかわりがあることからぶどう酒が連想されるが、フェルガナ以外の地域でもぶどう酒は広くつくられているためヒントとはならないだろう。いってしまえば、仮にニサ=弐師の学説が正しいとしても、そのニサが現在のどこに当たるかを突き止めるのは不可能に近いのである。
これからの展望
ここまで大宛国にかかわるいくつもの研究を紹介してきたが、多くの学者の懸命の努力にもかかわらず、いずれも答えは出ていない。当然、私のようなシロウトがこの問題に対して解決の光を当てることなど到底かなわない。しかしながら、現地で大学生に対してのヒアリングを通し、現地の人がこの問題に対してどのような認識を持っているのかを(おそらく大半の人はこの国の存在すら知らないかもしれないが)調べてみたい。ほかにできることといえば、ウズベキスタンの地に立ち、はるか昔にこの地を駆け抜けた名馬に思いをはせることであろうか。
文責:文科二類二年 藻谷
政治体制
公開日:2011年8月27日
投稿者:uzstudent2011s
リビアでカダフィ政権が倒れた。
自国民に対する非人道的な抑圧と殺戮を長年にわたり続けてきた支配者を追放し、民主化の旗を振りかざす反カダフィ勢力の姿は、ともすると微笑ましいものなのかもしれない。
しかし今後「アラブの春」が平和裡に戦地を包み込んでいく光景は想像し難い。また、「独裁=悪」の類の絶対的観念が我が国においてどうも拭い去られていない感がある。
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この文章を綴るまさに今の、民主主義の日本の政治体制を考えさせられる。
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アンディジャン事件およびその後の外交姿勢を欧米よりの視点で捉えると、カリモフ大統領を長とする権威主義体は、その性格の一面をひどく強調され、人権侵害が云々という議論にしか発展しないようにも思えてくる。
統計データや契約内容の不透明性ゆえに信頼醸成に至らない、近代国家に求められる法律が整備されていない、そういった点から西側諸国ないし国際的なファンドから融資を受けにくくなり、例えばインフラ不足という事態の解決を遅らせうるものかもしれない。
一方で、発展途上国が国内産業育成などを主たる目的として幾分か強権的になることは歴史の中で珍しいことではないことと思う。地理的・文化的な密接性、貿易相手や輸送ルート(内陸国のウズベキスタンが海洋と結びつくにあたっては新疆ウイグル経由で連雲港につなぐのが簡便。(ジェトロ「中央アジアで拡大する中国のプレゼンス」2008年、ジェトロ 62頁より))といった経済的重要性を鑑みたうえで、政治体制の理解にさほど齟齬をきたさない中国との関係を良好に保つことだけを第一義的に考えることも十分に最適解たりうる。
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中央アジア外交の舞台に日本の姿は目立たない。ただ日本の資金援助(下表参考)は、地域別に見て比重が小さいという見方もできる一方で、各国と比較した際には十分な貢献度を保持してきていることは否めまい。「対シルクロード外交」や「中央アジア+日本」を標榜するその姿勢を顕在化させるためには、今以上のプレゼンスと独自性が必要ではないだろうか。
両国の間に複雑な歴史的背景があるわけでもないし、内政干渉擦れ擦れの政治問題を俎上に載せることなく、その潤沢な資金と民間団体とによる効用をどう最大化するかに絞っていくのもよいと思うのだが、どうだろうか。
相手国の政治体制への違和感が協力の足枷となるようでは勿体無い。
出典:外務省 政府開発援助(ODA)国別データブック 2010
(文 : 文科Ⅰ類2年 野崎拓洋)
ウズベキスタンの結婚式
公開日:2011年8月26日
投稿者:uzstudent2011s
前回はウズベキスタンの「今」を象徴するウズベキスタン・ポップスを紹介したので、今回はウズベキスタンの伝統儀式の一つである結婚式について紹介したいと思う。結婚式ももちろん音楽と舞踊をこよなく愛するウズベキスタン人がよく表れている儀式だ。
ウズベキスタンの伝統的な結婚式は人生の一大イベントであり、親族がたくさん集まって行われる。田舎では今もこうした伝統的な結婚式が多く行われており、ホテルでの結婚式が多くなってきている都会でも内容においてはウズベキスタンの伝統を色濃く見ることができる。
伝統的な結婚式ではまずホトハ・トゥイと呼ばれる婚約の儀式が親の賛成と祝福によって段階ごとに行われる。成年に達した男性の親は息子にあう女性を探し始める。女性が見つかると、親とおばさんたちは女性の家に行き、息子にあう女性かどうかを判断する。あうと判断されれば、仲介人が選ばれ、仲介人は婚約日を発表、女性の家に女友達や親せき、マハッラの長老たちが集合、儀式を執り行う。ここでPATIRと呼ばれるパンを切り分けることで婚約が確定する。終わりに仲買人は結婚式の日付を決定、仲買の皆には女性の親からレピョーシカと菓子がくばられる。
結婚式の日の一大イベントといえば何と言っても朝プロフだ。朝の5時から200名ほどの客人にプロフを振る舞う。これは、花婿から送られた米、油、にんじん、羊の肉を用いて花嫁の家で行われる。朝プロフは男だけの行事で、食べるのも男なら作るのも男である。伝統的な歌を歌う歌手なども呼ばれて食事会が催される。
朝プロフが終わると花婿と花嫁は、結婚届けを提出しに行く。この後、レストランに集合してまた歌を聴きながらの食事会が催されることもある。
夜には盛大な披露宴が催される。これはとても大きな規模のもので、また歌手を呼んで食べ、歌い、踊る宴会の時間が続く。このとき呼ばれる歌手は国でも有名な歌手であることが多く、紅白歌合戦のような盛大な結婚式が行われる。これはウズベキスタンの結婚式の大きな特徴であろう。このダンスの時間には祝儀のお札も飛び交う。
披露宴が終わると新郎は新婦を連れて帰る。そして、翌日の朝には新婦の挨拶という行事がある。花婿は花婿の友人によって連れて行かれ、花嫁は伝統的なショールをかぶって挨拶に来るみなに挨拶を返す。
これが終わると結婚の二日後にはまた、新婦の両親による女性だけのパーティーが開かれる。これはお互いのことをよく知るために行われるのだそうだ。
こうしたウズベキスタンの結婚式には200~400人の人が集まり、楽しいお祭り騒ぎが続くのである。
このように、ウズベキスタンの結婚式は、もちろん個人の祝いの席であるが、それと同時に家族・親族の祝いとしての機能も果たしているといえるだろう。それはコミュニティの中に新しく新婦という他からの人員が増えるお祝いの席であり、また新郎のコミュニティと新婦のコミュニティが新しく関係をもつお祝いの席でもあるのだ。結婚式には大勢の人が呼ばれるし、朝プロフなど結婚祝いの準備は家族・親族によって行われる。新婚夫婦が自分たちで全てをセッティングし、お祝いに人を招く欧米流の結婚式とは趣向も異なったものになる。
欧米では「私」とは独立した個人としての私であるが、それに対してウズベキスタンでは「私」とはコミュニティの中におけるあるいはコミュニティ同士の関係性における「私」であるのだ。こうした共同体への考え方は一昔前の日本にも似ているだろう。
ウズベキスタンでは近年マハッラの見直しが進んでいることもあり、政府を中心にこうした共同体の働きをより強めようとする働きがあるようだ。一方で若者を中心に生活はどんどんと欧米化してきており、結婚式もホテルで行われることが多く、今は親同士が決めた結婚ではなくて男女が自分たちで知り合って結婚ということも都会ではよくある。
生活スタイルが変わっていく中でいかに家族・親族、またローカルなコミュニティを維持していくのかは大きな課題であるだろう。生活の変化に合わせて個人を個人として規定していくようになれば、大きな自由が生まれ対等な立場の個人が出現する。一方で、そうした変化によりローカルコミュニティは消失し人々は存在のよりどころを失ってしまう。逆に共同体の力を強めていくことは生活基盤としての地域社会を提供するが、共同体が過度に機能すれば個人の抑圧やコミュニティ間の対立起こる可能性がある。
そうした中でこれからウズベキスタンがウズベキスタンとしてあるために作り上げていくべきコミュニティと個人との関係性の匙加減は、伝統かモダンかという問題とも相まって大きな影響を及ぼしているのではないかと思う。
(2年文科二類 鈴木)
ウズベキスタンポップス
公開日:2011年8月26日
投稿者:uzstudent2011s
日本においてはウズベキスタンの認知度はまだまだ低く、砂漠、シルクロード、サマルカンド…といったイメージがある程度なので、伝統音楽ならばいざ知らずウズベキスタンポップスといえばその認知度はさらに低い。しかし、ウズベキスタンポップスはなかなか味のあるもので日本にもコアなファンは少数ではあるが存在するし、大きなCDショップでは片隅にほんの少しだけだが紹介されている。音楽と踊りをこよなく愛するウズベキスタンの人々にとってポップスもまた生活に大きな比重をしめているようで、みなMP3で好きな音楽を聴いているらしい。
文化を考えるとき、伝統と最先端の中で何を自らの文化としてこれから押し出していくのか、というのはウズベキスタンのみならず日本においても重要な論点だ。そこで今回はこのポップスに焦点を当てて考えてみたい。
ウズベキスタンポップスはウズベク音楽の伝統を感じさせるものでその独特のこぶしの利かせ方は欧米や日本ではなかなかお目にかかれないようなものが多い。曲の終りに長い絶叫がはいるものが多いし、前奏や間奏で際立つ弦楽器の旋律はまさに中央アジアを感じさせる。とはいえ、欧米でよくあるポップスの一種であることは確かで種類もラップのようなものからバラードのようなものまで様々ある。またプロモーションビデオなどでは最先端のもの、今ウズベクの人々に「かっこいい」と思われているものを少しだけ感じ取ることができる。かなり露出度の高い衣装と、曲によって全く雰囲気を変える化粧ははじめて見た私にとっては驚きであった。プロモーションビデオはクオリティの高いものが多く、日本で見られるものとほぼ同様だが、ストーリーもののコミカルな(?)ストーリー設定や夢を見ていただけだったというパターンが多いことなどは特徴といえるかもしれない。また一方で、伝統のアトラス模様の衣装でタシケントやサマルカンドなどの有名観光地で歌うプロモーションビデオも少数ではあるが存在し観光ビデオとしても有効そうで興味深い。
今ウズベキスタンで人気の歌手は、女性歌手ではRAYHON,SHAHZODA,SOGDIANA,LOLA,そして忘れてはいけないYULDUZなど、男性歌手ではSHAHZOD,BOJALAR,OYBEKなどだ。少しだけ取り上げて見るとYULDUZはウズベキスタン音楽界のまさに大御所で、日本人でも知っている人が多い、数少ないウズベク歌手の1人だと思われる。彼女は政府とも深いつながりがあったようで、国の大きなイベントなどでよく歌っていたのだが、2005年政府と関係が悪化して、今はトルコで活躍している。また、SOGDIANAはウズベキスタン生まれだがはじめはロシアで歌手として成功し、その後ウズベキスタンに逆輸入された歌手だ。SHAHZODAは美貌の歌手でロシア進出を進めているがそちらの方はあまりうまくは進んでいないそうだ。
こうして見てみると、ポップスにおけるウズベキスタンと周囲の国々との関係はなかなか興味深いものがある。ウズベキスタンにおいて、隣国のロシア、トルコはポップスに限らず最先端をいくお隣さんのようで、ファッションなどをみてみてもロシア製、トルコ製の洋服は少し高めでおしゃれ、と捉えられるらしい。音楽についても似たようなものがあって、ウズベキスタンは旧ソ連圏でロシア語が広く話されていることも手伝い、ウズベク歌手にとってロシアへの進出というのは一つの夢であるようだ。日本人歌手が欧米圏への進出を目指すのと似ているのだと思う。
一方でウズベク歌手のロシアへのあこがれは第三国の立場で見ると大変に興味深いものがある。歴史的に見てみると、ウズベキスタンをはじめとする中央アジアの国々は19世紀にソ連の支配下にはいった。ソ連以前には民族アイデンティティよりもムスリム・アイデンティティあるいはトゥルク・アイデンティティの方が強かった中央アジアの国々はその支配のもとで民族としてのアイデンティティを確立していった。ソ連の民族政策というのはその支配者ごとに変わる一貫性のないものであったが、それが現在の中央アジアの国々の民族アイデンティティに影響を与えているという側面も大きい。音楽を見てみると、この時代に弾圧された地域固有の音楽もあれば、逆に音楽学校が開かれて重視されるようになった音楽もある。また後者においては西洋音楽の枠組みで編曲や楽器改良がなされたりとソ連による取捨選択が反映されている。
1991年にソ連は解体し、中央アジアの国々は独立を遂げていった。こうして生まれた新しい中央アジア国家は各々その民族意識を強調に力を入れることとなった。そうしてその路線は現在にまで引き継がれているわけだが、その中でウズベキスタンのスター達があるいは若者たちが、ロシアに憧れを抱きロシア進出を望むという「ソ連圏人」としての行動をとるのは皮肉な様で大変に興味深い。と同時に、「欧米文化圏」であることを誇りにする私たち日本人の姿も皮肉として浮かび上がってくるように思う。
(二年文科二類 鈴木絢子)
文献『記憶の中のソ連―中央アジアの人々の生きた社会主義時代―』
公開日:2011年8月24日
投稿者:uzstudent2011s
人間は「未知」なものに対して不思議な魅力を感じるものである。私が中央アジアに興味を持ったのも、中央アジアに自分の知らない世界が広がっているのではないか?中央アジアには自分の知らない何かがあるのではないか?と期待したからである。そうしたことでこのゼミに入った私は、文献を中心として自分なりにウズベキスタンについて調べてきた。
しかし文献にはどうしても、統計データが羅列されていてリアルさが欠けているものや、ある一個人から見た、ある種の「偏見」が入ったものも多い。そうした中で現地の人々のリアルな声を収集するためにウズベキスタンで社会調査を行い、まとめた本がある。それが「記憶の中のソ連―中央アジアの人々の生きた社会主義時代―」(ティムール・ダダバエフ、筑波大学出版会、2010)である。今回はこの本を紹介してみようと思う。
この本の中に収められている調査は、2006年以降にウズベキスタンで行われた、現地に住む人々に対して行われた調査である。調査項目は多岐に渡る。調査においては、なるべく多くのことを聞き出すためにインタビュー方法や質問票に工夫を施している。また著者自身がウズベキスタンの出身であることから、調査に主観が入り、偏りが生じないように尽力している。
調査では様々なことが明らかになるのだが、この中で私が特に興味が惹かれたのが、ウズベキスタンの人々が意外と旧ソ連の時代に対してノスタルジーを感じている、という調査結果である。彼らの中には、かつて存在していた旧ソ連という大国の存在が消失したことに対して悲しみ、そして現在の生活状況と比較して、旧ソ連の時代は豊かな暮らしができていたというノスタルジーを感じる人がいるのである。
こうした現象を目にすると、歴史における「記憶」の重要性と危うさを感じずにはいられない。歴史においてこうした「オーラルヒストリー」的なものを残していくことは重要である。しかし周知の通り、当時のウズベキスタンには他の社会主義国と同様、制限や弾圧、物資不足などの問題が存在していた。にもかかわらず、そうした事実はこのインタビューからは伺いにくい。つまり、彼らは今の状況を悲観しているが為に、かつての旧ソ連の時代を必要以上に美化している可能性が高いのである。
さらにこうした事実から伺えるのは、社会主義国がその負の側面を如何に国民の目に触れないようにしていたか、ということであろう。しかしその実態がどうであったかは、資本主義国に生きる我々には非常に理解しにくい。(私も指摘されるまで気付かなかった)現地に行ってこうした事実の一端でも知ることができたら、と思った次第である。
日本ではなかなかない貴重な調査をまとめた本であり、ウズベキスタンに行く前に一読する価値はあるだろう。是非目を通すことをおすすめする。
(文責:文科二類二年 西田)
映画『UFO少年アブドラジャン』
公開日:2011年8月20日
投稿者:uzstudent2011s
前回は中央アジアの映画産業についてまとめたが、今回はウズベキスタンの映画作品をひとつ紹介したい。川名君が記述しているように、中央アジアの映画というのはなかなか日本では見られない。その中で、数少ないDVD化された作品である『UFO少年アブドラジャン』という作品を取り上げたいと思う。
『UFO少年アブドラジャン』は1992年にズリフィカール・ムサコフ監督が撮った作品で舞台はソ連時代のウズベキスタンのとある農村である。
ある日、その農村で集会が開かれている最中、議長がモスクワからの電報を読みあげた。その内容は宇宙人を乗せたと思われるUFがその農村に向かっているから宇宙人を発見したら報告するように、というもの。農民たちはUFOを知らないので、空からお客さんが来るらしいとののんびりとした解釈をした。そんな中、農夫バザルバイは奇妙な円盤型の物体が空から墜落してくるのを目撃した。近づくと裸の少年が倒れており、バザルバイは彼を助け出しアブドラジャンと名付け家へ連れて帰るのであった。バザルバイとその妻が面倒を見始めてから、アブドラジャンは次々と奇跡を起こしてバザルバイや農村の人々を喜ばせる、というストーリーである。
実はこの映画、冒頭に以下のようなナレーションが入る。
「拝啓、スティーブン・スピルバーグ様
この間、あなたの作品『E.T』を見ました。とても素敵な作品でした。実は私たちの村にも先日UFOが本当にやってきました。そのことを書いたので読んでください。」
つまりこの作品は、スピルバーグへの手紙を読むという形で語られているのである。私はこのアメリカのポップカルチャーと中央アジアの田舎の組み合わせが、実に面白いと思った。私たちが見慣れている、CGで何でもできるハリウッド映画や我が国の映画とは違う。人間の10倍もあるような巨大なスイカや、糸でつられた鍋をひっくりかえしただけのようなUFOは非常にチープな作りである。だが、この映画を見ると癒されたような優しい気持ちになれる。
この作品が作られた1992年は独立の翌年だ。ソ連の統制下でウズベキスタンの人々がどのような生活を送っていたのかはわからないが、きっと独立時に祖国再建を夢見、希望を持ったことであろう。これから創ろうとする自分たちの国。世界の人々との繋がり。その中で『E.T』に彼らは共感したのかもしれない。侵略者や敵としての異星人ではなくて、友達としての異星人。敵としていがみ合うのではなく、世界の国々と親友として繋がっていきたいという夢が重なったのではないかと思う。この映画からはそのような優しさが感じとれる。
事実ではなくて素朴な農民が書いた「手紙」という形式をとったこと、その宛先が記者ではなくスピルバーグであることがこの話をおとぎ話の雰囲気にしている。その雰囲気の中の低予算・低技術が逆に良い意味での手作り感を作り上げている。映画といえば、普段アメリカ映画などの予算のかかったCGを使ったものに多く触れるが、これもまた映画の形のひとつである。
2002年に大使館主催でウズベキスタン映画祭というものが開催されていたらしい。
中央アジアの映画にはDVD化されている作品が少ないだけに、このような映画祭がもっと開かれて中央アジア映画が浸透すれば、と思う。
(文責:文科2類2年 鹿田)
中央アジアの映画産業と考察
公開日:2011年8月20日
投稿者:uzstudent2011s
私はこのゼミを通して中央アジアの映画について興味を持ち、調査をしてきた。中央アジアの映画は日本ではあまり見る機会がないが、ソ連時代も含め映画製作が活発に行われたこともある。今回はウズベキスタンを中心に映画産業の歴史とその考察をしたいと思う。
タシケントでは1897年、最初の映画の上映が行われたという。当時ソ連は映画を、プロパガンダとして政治的な思想を広めるための利用を国家レベルで考えた。そのため、中央アジアの各地でも1920年代には映画製作の拠点が数多く作られている。ここで製作された映画は当初、ドキュメンタリー映画や短編映画が中心だったがそのうち技術の向上などにより劇映画も作られるようになった。第二次世界大戦に突入すると、ソ連の欧州部にあった映画撮影所は敵国の侵攻を受けて中央アジアに場所を移した。当時の映画の大半がここで作成され、その後の中央アジアの映画産業で働く人材の育成の場とも同時になったのであった。戦後60年代になるとモスクワや現サンクトペテルブルグで映画教育を受けた人々が各地の撮影所で映画を作成するようになった。この時期の映画にはソ連国外でも高く評価されているのもが多い。(川名君が紹介しているボロトベク・シャムシエフの『白い汽船』もその一例である)1991年に各共和国が独立した後は、製作本数は激減した。ソ連の計画経済の下であったら、内容の検閲など自由の利かない部分もあったがその反面予算などは確保されていたため独立後は衰退してしまったのである。
ウズベキスタンに関しては、ソ連時代ではこの地域での映画の製作がもっとも盛んであったのに独立後は衰退した。しかし、90年代末からは政策で年5本前後の製作が国家予算で保証されるようになった。国内の映画館設備は老朽化が激しく、また映画館内のマナーなども悪いという。さらにテレビやビデオを通じて映画が出回っているが、必ずしも国内映画というわけではなく外国映画が多いという。
ウズベキスタンの映画産業は岐路に立っていると思う。現在は、低予算で低技術の映画しか作れず、マーケットを意識しきれていない状況である。もしも映画を産業として、国際的に規模を拡大したいとするのならば、国際マーケットを把握してニーズにあったものを生み出していかなければならない。その動きとして、ウズベキスタンの映画監督には外国との合作を発表している人もいる。
授業中や昼休みに文化班の人とディスカッションを行い、文化面でのウズベキスタン、中央アジアについて話したが、映画に関係していてその時気がついたこととしては、
・ソ連時代の影響を受けていること
・そのために欧米の文化、流行が主流の国際マーケットに対応できていない
ということがあげられる。
例えば設備や映画を作る方法などはソ連からの影響を受けているし、従来の国内向けの作品で国外で評価されているのはわずかな上、前述したように国内でも外国映画ばかりがみられている状況である。
今、岐路に立っている映画産業だが、外国が合作を行う場合も少なからずあり、この地域の映画に対する期待は低くない。今後産業として強化していくのであれば、しっかりと現状を把握しマーケットを開拓して行くべきだと思うが、私個人としては、ハリウッド映画などにはないようなのんびりとした空気の流れるウズベキスタンの映画が好きだ。次回はウズベキスタン映画をひとつとりあげてその紹介をしたいと思う。
参考文献:「中央アジアを知るための60章」 宇山智彦 明石書店
(文責:文科2類2年 鹿田)
タシケントの見どころ&ウズベキスタン観光業考察
公開日:2011年8月14日
投稿者:uzstudent2011s
タシケントはウズベキスタンの首都であり、約220万人以上の人口を擁する大都会である。そこでは中央アジア唯一の地下鉄が走り、高さ375mのテレビ塔を始めとして近代的な大きなビルが立ち並んでいる。古くからオアシス都市として有名で、シルクロードの中継点として、中央アジアの交通の要衝であった。
タシケントの主な見どころの例を挙げる。
◆クカルダシュ・メドレセ
クカルダシュ・メドレセは、16世紀にタシケントの支配者であったシャイバニ朝のクカルダシュによって建てられた神学校。現在でも神学校として使われている。
◆チョルスー・バザール
地下鉄チョルスー駅を出てすぐの場所にあるバザール。クカルダシュ・メドレセとも近い。タシケントには大きなバザールがいくつかあるが、『古いバザール』と呼ばれるのはチョルスー・バザールだけである。チョルスーは『4本の道で囲まれた場所』 という意味。バザールの中心に青いドームのついた屋内バザールがあるのが特徴になっており、屋外では衣類など日用雑貨が多く、屋内では香辛料やドライフルーツなどが並んでいる。人と物で溢れかえって熱気があり、 日常生活で必要なものは基本的には購入できそうである。
◆ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場
ウズベキスタンの首都タシケントの新市街にある1500人収容の劇場。1947年に完成した。外見は淡い茶色で、6つの休憩ロビーは、タシケント、サマルカンド、ブハラ、ホレズム、フェルガナ、テルメズの6地方のスタイルで装飾されており、玄関正面の大きな噴水も特徴的である。この劇場は、実は第二次大戦後にタシケントに連れてこられた日本人抑留者の強制労働によって建てられたもので、1966年の大地震でもびくともせず、日本人の建築技術の高さを物語っている。
◆ウズベキスタン歴史博物館
タシケントの新市街にある博物館。中央アジアでは最も大きい博物館で、石器時代からロシア帝国の征服以降の歴史まで、ウズベキスタンの通史をざっと知ることができる。
最大の見物は、テルメズ近郊のファヤーズ・テペ遺跡から出土した穏やかな顔が印象的なクシャン朝時代の仏像で、他にも二階には石器時代からの鏃や土器、人骨、ゾロアスター教寺院の復元模型、三階にはロシア帝国の征服以後の歴史、独立後の展示品が置かれ、現代の産業についても見ることができる。
ブハラ・タシケントの概要と見どころをまとめたところで、最後に、これまでの調査のまとめとしてウズベキスタン観光の現状と課題について述べたいと思う。
◆現状
これまで挙げてきたような見どころを始めとして、ウズベキスタンにはシルクロードの起点であったこともあり、歴史的建造物など観光資源が豊富にある。
しかし、日本からウズベキスタンへの観光客は、年間約4千人でビジネス客は約2千人であり、上に挙げたような豊富な観光資源と比べればその数は多いとは言えない。
◆課題
上に述べたように、ウズベキスタンには観光資源が豊富なのにも関わらず、観光客数が少ない原因としては、交通の便が良くない(例えばウズベキスタン航空の便は週2便と少ない)ことやホテルの施設が良くないことなどがまず挙げられるが、根本的には、観光業を行う基盤が行政側・民間側にも整っていないことが原因である。例えば交通網の整備が不十分であったり、観光客向けのサービスが整っていないことがある。
さらに日本にもウズベキスタン観光を取り扱っているエージェントが少ないことも大きな問題である。そのため、手軽にウズベキスタンに観光に行くことができないばかりか、そもそもウズベキスタン観光についての情報を得ることすら難しい。
知名度やイメージにおいても重要な問題がある。海外旅行をしようというときに、ウズベキスタン観光をしたいと思う人は相当のマニアでない限り殆ど皆無であろう。そもそもウズベキスタンには観光地として「気軽に」行ける国というイメージはなく、治安やテロの可能性といった点で不安を抱く人も少なくないだろう。
先述したように、ウズベキスタンにはいくつかの世界遺産をはじめとした観光資源が数多くあり、サマルカンドやシルクロードのイメージと合わせて世界でも主要な観光地となる可能性を秘めている。そのためには、行政・民間双方から観光基盤を整理し、インフラの整理や、観光客向けのサービスを充実させることが必須である。また、日本のツアー客を募集するための母体が少ないのは、ウズベキスタン側のエージェントが日本側と契約できないケースが多いことが大きな原因となっていることも多いから、ウズベキスタン側と日本側のエージェントが円滑に交渉できるよう環境を改善することも重要である。
また、観光地としてのウズベキスタンのイメージ向上のためには、広報を充実させると共に、治安改善のための努力を重ね、地道に信頼を得ていくしかない。
(文責:文科2類2年 榊原)
ブハラの見どころ
公開日:2011年8月14日
投稿者:uzstudent2011s
ブハラは、ウズベキスタンの都市で、首都タシケントの南西約450kmに位置する。ユネスコの世界遺産に登録されているブハラは、かつてシルクロードの交通の要所として栄え、現在に至るまでイスラーム教の中心的役割を果たしてきた。中世のイスラーム哲学者・医学者であるイブン・シーナーはブハラ出身であり、この地で法典を著したことは有名である。
ブハラの主な見どころの例を挙げる。
◆カラーン・ミナレット
カラーン・ミナレットとはタジク語で「大きな光の塔」という意味で、高さが約46mありブハラで一番高い。1127年にカラハーン朝のアルスラン・ハーンによって建てられた、ブハラのシンボル的な建築物である。
◆カラーン・モスク
カラーン・ミナレットとつながっているモスク。現存している建物は1500年頃建てられたものである。広さは約1haもあり、1万人の信者が礼拝できた非常に大きなモスクである。正面入口は色タイルで装飾され、中央には青いドームがそびえている。
◆イスマイール・サーマーニ廟
サーマーン朝のイスマイール・サーマーニによって9世紀終わり頃に建てられた、中央アジア最古のイスラーム建築。特徴として、壁面のレンガが日差しの加減によりその凹凸の明暗が変わることで、色が変わって見えることがあり、レンガを積み上げただけでこれほど様々な幾何学的模様を付けている意匠には注目すべきである。サイズは9m四方、壁の厚さが1.8m、日干しレンガを積み上げた構造である。
◆チョル・ミナル
チョル・ミナルとは「4本のミナレット」の意。1807年にトルクメニスタン人の大富豪により建てられた。建物を囲う4本のミナレットと青タイルで美しく装飾された上部のドームが印象的である。
ひとまずここで筆を置き、次回はタシケントの見どころをまとめてから、これまでの調査のまとめとしてウズベキスタンの観光業の現状と課題について述べたいと思う。
(文責:文科2類2年 榊原)
中央アジアの歴史小話1
公開日:2011年8月12日
投稿者:uzstudent2011s
始めに
このゼミにおいて私は中央アジアの歴史に興味を持ち、調査を行ってきた。中央アジアはシルクロードの通り道として世界史に名を馳せており、アレクサンドロス大王やイスラーム軍、チンギスハーンといった他地域の侵攻を受け、様々な民族が入り混じって覇を競い、また文化的にも他民族の影響を受けて変容を繰り返してきた。しかし、このように非常に魅力的な研究素材を多く内包しているにも関わらず、資料の少なさもあってか中央アジアの歴史研究はあまり進んでいないのが現状であり、高校の教科書等での扱いも非常に少ない。このような研究対象としてのフロンティア性に魅かれ、私は中央アジア史を調べるに至ったのである。
とはいうものの、中央アジアの歴史は前述のように様々な要素を含んでおり、短期間に深く、且つ体系的に知るにはいささか困難を伴う代物である。したがって、中央アジアの歴史を俯瞰するであるとか、シルクロードの通商史において中央アジアの位置づけを行うといった大それたことはせず、いくつかの小さなテーマを設定し、それについて調べるという手法をとってきた。今回はこのブログでそれらのうちいくつかを紹介したいと考えている。
始めにことわっておくが、これらのテーマは各々がかなり狭い範囲を対象としており、これらの調査の価値を実感できない人が多く出てくるのも至極当然のことである。しかしながら、イスラームにおいて「神は細部に宿る」とも言われるように(かなりこじつけではあるが)、このような地味な調査も歴史を理解するうえで重要になってくるということを強調し、読者各位のご理解を頂きたい。
では、具体的な調査内容に入ろう。一つ目のテーマは汗血馬についてである。
大宛国①
汗血馬について語る前にまずは大宛国について述べねばなるまい。大宛国とは現在のウズベキスタン、タジキスタン、キルギス共和国にまたがるフェルガナ盆地に紀元前二世紀ごろから存在したとされる国である。この国自体は中央アジアにおいて無数に興亡した小国家のひとつに過ぎず、前漢の張騫がその存在を紹介するまではほとんど知られていなかったほどであり、詳細な歴史についてはわからないことだらけである。そんな国を世界史において一躍有名にしたのが、他ならぬ汗血馬である。
汗血馬
ではその汗血馬とはいったいどのような馬であったのか。汗血馬とは読んで字のごとく「血のような汗を流して走る馬」のことであり、(もちろん誇張であろうが)一日に千里(約500km)も走ると言われている。大宛国はこの汗血馬を多く産出したとされ、先述の張騫が汗血馬を大宛国の存在とともに武帝に報告すると、良馬の不足に悩んでいた武帝はこの類まれな名馬を強く欲するようになり、大宛国にこれを求め、最終的には軍をもって服属させるまでに至っている。また、三国志演義に登場する赤兎馬もこの汗血馬をイメージしたのではないかとされる。
汗血馬の正体
このように中国史に登場してくる汗血馬は、実際はどのような馬であったのだろうか。常識的に考えれば血の汗を流す馬が実際に存在したとは考えにくい。この「血の汗を流す」という部分に関してはいくつかの説が挙げられているものの結論は出ていない。ひとつは馬の毛色によって、流れた汗が血の色のように見えたというものである。これは実際にそう見えることがあるということから有力であるように思われる。もう一つの説として、血汗症という症状を起こす寄生虫によって実際に血の汗を流していたというものがある。この説は趨勢であるようだが、汗血馬が血汗症であったという証拠はなく、今となってはそれを知る術はない。他にも寄生虫によって表皮に滲んだ血液が汗と混じって見えたといったような説もあり、想像欲を掻き立てられる。「一日に千里を走る」という部分は間違いなく誇張であるにしても、寄生虫がついた馬が痛みに刺激されて通常より速く走るということはあるようだ。
伝説の名馬は今どこに
様々な学説が飛び交う汗血馬だが、現代には存在するのか。自分が調べた限りにおいては、現在フェルガナ盆地周辺ではあまり馬の飼育は盛んではないようで、この地がかつて名馬の里であったとされるのに対し、今では馬の価値もそこまで高くないのではないかと思われる。このあたりについては実際にウズベキスタンで馬の現状についての軽い調査をしてみたいものである。一方で、フェルガナ盆地とは異なる場所で、汗血馬の子孫とされる存在を見ることができる。主にトルクメニスタンで飼われている「アハルテケ」という種の馬がそれである。トルクメニスタンは現在でも馬の名産地として有名であり、アハルテケは同国の国章にも描かれている。この種は小柄であるが美しい体つきをしており、4152kmを84日で走破した記録を持つほど走りに長けている。ここで問題になるのはもしアハルテケを汗血馬の子孫とすると、大宛国の位置そのものがフェルガナ盆地よりもさらにトルクメニスタン側にあった可能性が出てくる点である(フェルガナとトルクメニスタンの間にはかなりの距離がある)。これは大宛国の位置がそもそも確定していないためであるが、このあたりは次回のブログの内容の布石とし、今回は汗血馬について述べたところまでで筆をおこうと思う。
文責:文科二類二年 藻谷