中央アジアにおけるロシア語教育
公開日:2011年8月11日
投稿者:uzstudent2011s
私は2005年の愛知万博で旧ソ連圏各国のパビリオンの係員(20代)にロシア語で話しかけてみたところ、全く通じなかったバルト三国、カフカス諸国とは対照的に、中央アジア諸国 係員は全員ロシア語が通じた。そのため、今でも熱心にロシア語を教育しているのかと思いきや必ずしもそうではないようである。
政府は、教育改革の中でも特にウズベク語化政策(80%がウズベク族)を推進している。学校教育では、ウズベク語に重心が移りつつあるが、都市部ではまだロシア語で授業を行う学校も存在する。大学では卒業論文等をロシア語での提出を認めない所も出現し、教育のウズベク語化が徐々に進んでいる。(ウズベキスタン)
独立後の10年間で初等・中等教育におけるカザフ語化が進み、カザフ語のみで教育を行う学校が増えている。
また、公立学校ではカザフ語が義務化されている。教授言語はカザフ語で行う学校、ロシア語で行う学校にわかれており、最近はカザフ語で行う学校が増えている。(カザフスタン)
当地には母国語であるトルクメン語の学校とロシア語の学校が存在しており、そのどちらかの語学が得意かによって選択することが出来る。ただ殆どの学校は母国語であるトルクメン語で授業を行っており、ソ連崩壊後トルクメニスタン建国15年を経過した現在、ロシア語の学校は少なくなってきている。(トルクメニスタン)
旧ソ連の教育カリキュラムが受け継がれている。教授言語は一般的にタジク語であるが、ロシア語も多数ある。年々、大学への進学率は高くなってきておりロシア語で授業を行う大学への人気が高まっている。(タジキスタン)
キルギスはソ連崩壊後いち早く旧ソ連型統治から市場経済化・民主化への脱却が行われた国であるが、統一された指導要領はなく、学校毎に教育内容が異なる。(キルギス)
(外務省:諸外国の学校制度 http://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/world_school/05europe/index05.html)
こうして見ると将来的にロシア語を話せない人が増えると考えられる。現在は中央アジアの指導者層同士は母国語並みに操れるロシア語でコミュニケーションをとれているが、将来的に共通の言語がなくなったら協力関係に支障をもたらすのではないかと危惧される。
(文:文科三類二年 濱中)
ソ連の歴史教科書における日本の戦後
公開日:2011年8月11日
投稿者:uzstudent2011s
本来はウズベキスタンの現在の歴史の教科書について書きたかったのだが、手に入らなかったため文科省内にある教育図書館所蔵の”Новейшая история для 10 класса”(10年生のための現代史)(1973)を参照した。
「日本」という題で4ページ半にわたる章がもうけられており、さらに「戦後の改革」「戦後の経済成長」「外交」「労働運動 」「日本国民の平和のための闘争」といった小見出しで分けられていた。
やはり社会主義的イデオロギー色が濃いことは否めない。中小企業の労働者が大企業に苦しめられていることや格差に関する記述が多く見られる。
「急速な工業の発展は科学技術革命だけでなく日本のプロレタリアートの残酷な搾取によって説明される。国家機関が巨大コンツェルンの繁栄に協力し、免税をしたり、利益になるような注文を割り当てたり、大規模に経済改革を変更したりして国が経済における重要な役目を果たしている。」
「増大する小作農の土地に対する闘争の影響のため政府は農地改革(1946〜1949)の導入を急いだ。地主には耕作地が3町残され、残りは国が買い取り農民に売却した。農地改革は小作人の数を減らし自作農を2倍に増やした。富裕な農民は顕著に財産をふやした。高い土地代のため多くの下流、中流階級の農民は土地を所有することはできなかった。」
基本的にどの資本主義国についても批判的に書かれている。しかしアメリカを絡めた批判が多いことが特徴的である。
「日本の民主化と非軍備化に関する連合国列強の決定にも関わらず、アメリカの占領政権は独占企業と地主と強く結びついた反動的な代表者からなる政権を形成した。その後、彼らは統治の指導者となり、現在は独占企業に支援を受けた自由民主党として政権を握っている。アメリカの支援のもと政府は以前の国家機構を維持し左翼を罰し労働運動を抑圧した。政府は政治力によって日本の独占企業の地位の復興を促し国内のアメリカの影響の案内人となった。」
「サンフランシスコ会議の後、自由民主党は陸海空軍設置に着手した。これは明らかに憲法に反している。(中略)アメリカ帝国主義は日本を軍備化することを選んだのである。」
今の日本の歴史の教科書や、参考として読んだ今のロシアの歴史の教科書とは、だいぶ趣きが異なるのは確かではある。しかし、かといってこの教科書に書かれていることが嘘八百だとは思わない。普通の教科書では切り捨てられがちな弱者に焦点を当てている点は特筆すべきであろう。ただ自国の政治、経済が腐っていることを棚に上げて批判している点は問題があるが‥。
(文:文科三類二年 濱中)
映画『白い汽船』
公開日:2011年7月4日
投稿者:uzstudent2011s
前回書いた通り、アテネフランセでのソ連映画特集で観たもう1本の映画を紹介したいと思う。
1976年にキルギスで制作された作品で、タイトルは『白い汽船』。監督はボロトベク・シャムシエフという人で、キルギスを代表する作家だというチンギス・アイマートフの同名の小説が原作で、そのアイマートフが脚本も担当している。
主人公は、街からはすこし離れたキルギスの山のなかに住む7歳の少年。山といってもこのあいだの『灰色の狼』とはまったく違う、森にかこまれ小さな川が家のちかくを流れるというような牧歌的な風景が広がる。少年は働きにでたきり戻ってこない両親の帰りを待ちながら、やさしい姉や祖父に意地悪な義理の祖母、そして叔母夫婦などと山で暮らしている。そんな少年の、小学校入学前後の日々を描いた作品である。
本当に素晴らしい映画だった。名作といっていいと思う。映像、色彩の感覚もとてもよく、現実と想像・夢との織りまぜ方も実に巧み。主人公の少年はもちろん、そのまわりの人物の描き方もよかった。
主人公の少年は無邪気で奔放、とても想像力が豊かだ。家のまわりの野原を駆けまわったり川で泳いだりして遊び、手伝いをさぼって遊んでいたのを厳しい義理の祖母にとがめられれば、手に持っていた双眼鏡に「双眼鏡、おまえもいけないぞ。おまえが誘ったんだから」と話しかけたりする。少年が祖父に学校へ通学するカバンを買ってもらってはしゃぎまわるところに始まり、はじめはそんな明るい少年の様子が中心に描かれるが、話が進んでいくとだんだんと少年の悩やむ様子や心の揺れうごき、少年のまわりで起こる様々な揉め事などが見えてくる。遊んでいた最中にお父さんに会いたいといってふと涙をながす少年(もっとも、子どもの常でつぎの瞬間にはまた遊びに夢中になるのだが)、子どもができないことへの怒りから叔母に暴力をふるう叔父と、そのことに心を痛める祖父と少年。義理の祖母は叔父と共謀して、自分の娘である叔母を離婚させて叔父と少年の姉を結婚させることを企み、その結果少年をいつもやさしく世話していた姉は街へ逃げてしまう。そして、やさしかった祖父が権力者の叔父(祖父からすれば娘婿)と衝突して仕事を失ってしまい、少年は大きなショックをうける。悪人の叔父と義理の祖母によってやさしい祖父や姉が苦しめられるという単純な構図ではあるが、叔父も仕事上かつてほどの力がなくなったことや子どもができないことに苦しんでいたりなど、人物造形が巧みで描き方もうまい。
映像的にも、みるべきところがたくさんあった。木々と草原の緑や川の水、青空と太陽の明るいイメージ、夜や物陰の暗闇などの暗いイメージと話にあわせた色彩の使いわけがなされ、それぞれの場面でみても映像としてとてもきれいなものが多かった。途中で祖父が語る民間伝承として「母鹿の伝説」というものが挿入されたが、この場面では赤や白をうまく使って民話の幻想的・神秘的で少し残酷な雰囲気をうまく表現した映像となっていて素晴らしかった。また、双眼鏡を通してみた湖に浮かぶ白い汽船(タイトルの元となったモチーフである)、水の中を潜る少年など様々な「装置」をうまく使った映像もみられた。少年が自分が魚になる想像をすれば少年が魚になってまわりの家族などに囲まれて泳ぐ映像が挿入されるなど、現実と少年の空想の混ぜ方も巧みで、ラストは様々な悩み事に苦しんだ少年が熱にうかされ、現実とその空想の境目があいまいになっていくような映像で終わる。
繰りかえしになるが、本当によくできた素晴らしい作品だった。子どもの想像力をあつかった映画の名作は、アルベール・ラモレスの『赤い風船』やビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』など多数あるが、そんな名作の1本にこの『白い汽船』も加えていいのではないかとさえ思う。タルコフスキーやパラジャーノフの作品などソ連ではかなり高いレベルの映画がつくられていたというのはよく言われることだが、ソ連のなかでも中央アジアにここまで良い作品があったというのはまったく知らなかったので今回かなり驚かされた。しかし、これだけ絶賛してきたこの映画『白い汽船』だが、今回はたまたま特集で上映ものの、日本ではDVDもビデオも発売されておらず、普通には観ることができない。もっと評価され多くの人に観られるべき作品だと思うので、いつかDVD・BD化されることを切に願う。そして、またこの作品に限らず現代のものも含めて中央アジア映画がもっと日本で広く観られるようになり、日本人の中央アジアへの関心も高まればと思う。
(文:文科二類二年 川名)
日本における中央アジア映画、そして映画『灰色の狼』
公開日:2011年6月24日
投稿者:uzstudent2011s
中央アジアの映画というのはなかなか日本ではお目にかかれない。日本版のDVDが販売されている作品は数えるほどしかなく、DVDがすでに廃盤になってしまったものやVHSでのみかつて販売されていたものを含めてもごくわずかしかない。劇場での上映についても、普通に日本の配給会社が配給契約をむすんで劇場公開されるということは少なく、映画祭(東京国際映画祭や東京フィルメックス、アジアフォーカス福岡国際映画祭など)やその他なんらかの特別上映企画(各国大使館や国際交流基金の協力で中央アジア映画に的を絞った特集上映も何度か行われている)など限定的なかたちでのみ上映されるということが多い。
しかし、中央アジアで全然映画がつくられていないのかというと、決してそうではない。ソ連時代には、各共和国ごとに映画会社がつくられ、国家の奨励の下で盛んに映画制作が行われていた。そして、ソ連崩壊、各国の独立の後も(政情の変化などで映画産業が一時的に衰退した地域もあったが)映画制作はつづけられており、カンヌやベルリンといった国際映画祭に出品されて国際的な評価を得る作品、監督も多数あらわれている。
このように、質、量ともにけっして低いレベルではないわりに日本ではなかなか観られる機会の少ない中央アジアの映画だが、6月17日から6月30日までアテネフランセ文化センターでおこなわれている「ソビエト映画アーカイブス スペシャル」(http://www.athenee.net/culturalcenter/program/s/ss.html)という特別上映企画では、中央アジア映画の中でも特に観られる機会の少ないソ連時代の作品が数作上映された。その上映された数作の中から、ここでは『灰色の狼』という作品について書きたいと思う。
『灰色の狼』は1973年にキルギスで制作された作品で、監督の名はトロムーシュ・オケーエフ。キルギスの映画だが、カザフスタンの作家アウエーゾフの短編小説が原作になっているという。
舞台は荒涼とした山あいの地域、主人公は日本でいうところの小学校低学年くらいの年齢の少年で、両親とは幼くして死に別れ、伯父と祖母に育てられている。物語は伯父が仕留め残した狼の子どもを少年が伯父の反対を押しきって家に引きとり育てはじめるところから始まり、そこから主人公と狼との関係や主人公と周囲の人々の暮らしの様子が描かれていく。
一言でいえば、厳しいリアリズムの映画である。夏は乾燥し、冬は冷えこみ地面が雪におおわれるという過酷な自然環境。荒れた土地で植物が育たないため人々は羊の放牧で暮らしているが、狼の群れに襲撃をうけて羊を食い荒らされるということもたびたび起こる。主人公の少年が愛情をこめて育てていた狼も映画の後半には脱走し、クライマックスでは戻ってきたその狼が少年を襲って瀕死の状態に追いこみ、けっして狼は人にはなれないのだという伯父の厳しい言葉の通りになる。この映画で描かれる人間と自然との関係は、このようにとても厳しい。しかし、それだけでなく、人間という生きもの自体や人間同士の関係というものについても厳しいまなざしが貫かれる。まず、伯父の主人公の少年に対する態度はとても厳しい。これは子どものいない伯父が少年を家の跡継ぎとして強い男に育てたいということのなのだが、伯父の不器用さから二人の関係は主人公にとっても伯父にとってもあまり幸せとはいえないものになってしまう。また、伯父は生活に苦しさから地主の羊を盗むという罪をおかし、自分をいっそう追いつめる結果に招く。少年に対してやさしかった祖母は次第に病気で弱っていき、少年が家出をしたときに助けてくれた伯父の友人も政治犯として追われており、ラストシーンは瀕死の少年を看病していた彼が警察に連れていかれる場面だった。
ズームイン・ズームアウト、パンやカメラの移動、カット割りといった撮影技術は非常にシンプルで特に凝った技巧は使われていなかったが、リアリズムに徹した描き方をするこの映画ではむしろそれでよかったと思えるふうでもあった。映画としての質は同時代の他の地域、ソ連以外の地域とくらべても遜色はない、いやむしろ中央アジアの風土をうまく描いた佳作、良作の類に入る作品と言っていいのではないかと思う。
さて、『灰色の狼』についての感想は以上だが、今回のこのアテネフランセの特集からはもう1本『白い汽船』という作品(これもキルギスの作品)についても紹介したいと思うので、次回はその作品について書きたいと思う。
(文:文科二類二年 川名)
ラグマン作ってみました
公開日:2011年6月16日
投稿者:間下 大樹志
こんにちは!食文化班の福井と間下です。
先日、ウズベキスタンの伝統料理・ラグマンを作ってみたのでその報告をしたいと思います。
まずは「ラグマン」とは何か説明しましょう。
ラグマンとは、ウズベキスタンをはじめとする中央アジア地域、および中国のウイグル自治区などで
日常的に食べられている麺料理で
イメージとしては、トマトとラム肉のスープを使った讃岐うどんという感じです。
また、ラグマンという名前からもわかるように、ラーメンのルーツとなった料理であるとも言われています。
***
今回、大鬼からこの写真を託された。
大鬼とは、ゼミを統括する岡田先生のことである。
ウズベキスタンで大鬼が食べたこれを日本で再現してみよというのが今回の指令。
我々は戦慄した。
「こんなものが作れるのか?」
しかし我々は作らねばならなかった。大鬼の指令には逆らうことは許されない。
我々は足早にオオゼキ下北沢店に向かった。
今回用意したのはこちらの材料である。
秘伝のスパイスは大鬼がウズベキスタンより持ち帰った本格派であり
さらに本場のナンのおまけつきだ。その点実に気前が良い。
(なお、秘伝のスパイスはクミンシードであることが後で判明した。)
見たこともない材料達を前にして、
これでお料理系男子への仲間入りだ。我々は希望に胸を躍らせていた。
おもむろに包丁をとり、
タマネギ、青唐辛子、にんにく、ピーマン、パプリカ、ズッキーニといった野菜を切り始めた。
そして炒めた。
今回、フライパンの容量の関係でにんにく青唐辛子、たまねぎ、パプリカ、羊肉は別々に炒めることとなった。
まずにんにく青唐辛子で油(今回はサラダ油を使用した)に香り付けをした後
たまねぎをきつね色になるまで炒める。
そこにパプリカとピーマンを入れ
さらにその後羊肉をいためた(羊肉はブロックのものがよかったが、今回は手に入らなかったのでスライスのものを使用した)
このとき同時に、鍋には1500ccの水とローリエ、コンソメを入れ煮立たせる。
時計を見れば、すでに夜の1時過ぎ。
立ち上るローリエの良いにおいに「中央アジアの香りがするッ!」と狂喜乱舞していた。これが巷で言う深夜テンションである。
そしてついに、スープと野菜が邂逅するときが来た。
ぐつぐつと煮込まれていく野菜たちに我々は夏に向かうウズベキスタンへの思いを重ねていた。
鍋からは湯気とともに、美味しそうなにおいが立ち上る。食欲へきつい一撃を加える。
我々は今か今かと煮込み終わるのを心待ちにしていた。
そして、キッチンタイマーがついにその時を告げた。
さあ、盛りつけである。
人は顔が9割と言われるが、盛りつけも同じである。失敗は許されない。
別にゆでておいた讃岐うどんにできあがった具とスープを盛りつける。
細心の注意を払い、具をOn The UDONした。
さあ、みたまえこの類似性を。
我々は大鬼の指令を見事遂行することができた。
遂行された任務ほど語るに足らないものはない。
とは言うものの、食べた感想も記しておきたい。
まず、少々水を入れすぎたため少し味が薄くなってしまった。
さらに、青唐辛子を入れすぎたせいで少々味が辛くなってしまった。
やはり、きちんと各々の材料の分量は守らなければならない。
報告はここまでで終わりとしよう。
反省は色々とあった。
だが、我々は確かにこの料理の中にウズベキスタンの空気を感じることができた。
また一歩ウズベキスタンに近づいたのだ。
我々は作り続ける。遙かなるウズベキスタンを目指して。
※次回はプロフに挑戦します。
(文、写真:文科二類二年 福井・理科二類二年 間下)
ゼミブログはじめました。
公開日:2011年6月16日
投稿者:間下 大樹志
はじめまして!このブログは全学自由研究ゼミナール 中央アジア散歩の面々が、活動報告や調べたことを発表していくブログです。
政治・経済から食文化や表象文化まで、様々なカテゴリーについて執筆していく予定です。夏休みの現地滞在記なども書く予定です。
よろしくお願いいたします!
(文:理科二類二年 間下)