中央アジア散歩 2011年夏学期 全学自由研究ゼミナール

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証券所取引システムと経済進出

公開日:2011年8月29日

投稿者:uzstudent2011s

2011年8月29日の日経新聞からの抜粋となるが、韓国の株式市場を運営する韓国証券取引所(KRX)がウズベキスタンに証券取引所システムを提供する契約に基本合意した。中央アジアはこれから経済成長が見込まれており、ロシアは旧ソ連圏への金融面への影響力保持を目指してカザフスタンなどにシステムの売り込みを行っている。韓国ロシアは中央アジアの国に証券売買システムの供給をきっかけに自国の金融機関の進出や経済的な影響力の拡大を行うという思惑を持っているようだが、元々ロシア韓国共にウズベキスタンとの経済面での関係は深い。例えばロシアに関してはウズベキスタンの第一の輸出輸入相手国で、輸出に関しては全体の17.2%、輸入に関しては全体の24.8%を占めている。韓国に関しても、ウズベキスタンの輸入相手国では中国に次いで第三位に入っており、全体の12.9%を占めている。ロシアは旧ソ連圏という繋がり、中国はウズベキスタンと地続きになっているから貿易量が多くても不思議ではないが、韓国がここまでウズベキスタンとの貿易を活発に行えている理由は何なのか。実は韓国はもともと官民一体となってのウズベキスタン進出が行われており、進出分野も資源エネルギーに加えて、エレクトロニクス・繊維・自動車・建設・通信と多様で、中小企業を含めて200以上の企業がウズベキスタンに進出しているようだ。一方我が国日本の進出状況はどのようになっているのか。政府の行動に関しては、

2008年に日ウ投資環境整備ネットワークが開かれる。2011年に海江田万里氏がウズベキスタンのレアメタル開発に向けて協調することを決めたなど、かなり遅めの動きである上に民間企業はほとんど進出していない。実際に進出している企業は16社にすぎず、貿易に関しても輸出では2008年7600万ドル、2010年7700万ドルと実質的に伸び悩んでいることが分かる。ちなみに、ウズベキスタン全体の輸入総額は71億ドルと日本からの輸入は全体の1%にしか過ぎない。日本は韓国などの国に比べて、官民一体の行動が元々希薄であるように思える。近年盛んになっている途上国へのインフラ輸出に関しても民間企業の進出が先行し、官民一体となっての動きが見られるようになったのは韓国などに比べて非常に遅い。最近でもトルコへの原発輸出に関して管元首相の発言がトルコ側の不信を招き、結果として交渉の遅れをもたらし欧州勢の売り込みが発生した。官民一体となっての動きという点では韓国に見習うところも多いのではないだろうか。

しかし日本はODAなどの経済協力では2004年から2008年にかけて2006年を除いて金額では常に一位である。支援などをウズベキスタンとの経済関係の発展にもう少し活かすことができるのではないだろうか。自分自身も民間におけるウズベキスタンと日本の交流の発展の一助となるべく今回の訪問では頑張りたいと思う。

参考文献:JETRO ホームページ(htp://www.jetro.go.jp/world/russia_cis/uz/basic_01/#block6)

外務省ホームページ(http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shiryo/kuni/10_databook/pdfs/03-01.pdf

2011 Data Book of The WORLD(二宮書店出版)

文責:二年文科Ⅱ類八木雄介

バザール経済

公開日:2011年8月29日

投稿者:uzstudent2011s

経済体制と言うと常識的に市場経済(資本主義)と計画経済(社会主義)の二種類に区分できる。バザール経済のおもしろい点は、これはどちらにも属さないタイプの経済であることだ。売り手の利益の最大化が究極目的ではない点で市場経済とは異なり、ある地域に居住する人々が依存し合っている経済と言う点で、上からの(公的な)経済である計画経済と異なる。商業が活発であったイスラーム社会に根付いたものなのである。

バザールとはペルシャ語で伝統的なイスラームの市場(いちば)を指す単語である。(アラビア語ではスークという。)西・中央アジアのオアシス都市の、周辺地域の産物の集積地として発達した。このイスラームの伝統的な市場は多数の小路から成り、単に経済的な機能を持っただけではなく、店舗の他に、モスクや学校、茶屋なども存在した。地域に基づいた有機的なつながりであり、従来から自律的であった。これゆえに、近代化によっても容易に解体されず、現在も残っているそうである。

では、バザール経済とはどのようなものなのであろうか。まず商品の値段が決まっていない。たとえ値札がついていてもあてにならない。この経済の特徴は、交渉によって商品の値段がきまることだ。

この市場では情報が非常に重要である。バザールに出回る商品はそれぞれに個性があり、その個別の商品についての情報を確実に入手することが良い買い物をするために求められることなのである。市場では人と情報が入り混じっているため、広範に情報を集めるのは得策ではなく、安定した取引先から深い情報を得るようにするのが有効であるとされる。取引先としても、自分にとって誠実な客を信頼によって確保するのである。商品の価格は、商品の質だけではなく、相手との関係によって決まってくるのである。相手との信頼関係の度合い、取引実績、相手がどれだけ有用な情報を持っているか、などである。情報が真実であるかどうかは自己責任によって判断するわけだが、ここにはイスラーム的倫理観が根底にあるといえる。

地域に密着した経済ということで、公的にその実態を把握することは難しいようである。近代以降、国家単位で経済力がはかられるようにもなったが、バザールには国家に測りかねる側面があり、その意味でインフォーマル・セクターとして区分される部分を含む。バザールはイスラームに根付いた有機的なつながりを含み、殊にイランにおいては寄付を管理していたイスラーム法学者のウラマーはそれを公共性の高いことに運用し、商人が財政力により地域の経済を支えることで、国家に対抗する力を有した。1970年代の反体制運動ではこのネットワークが重要な役割を果たしたとされる点が興味深い。ウズベキスタンにおいては旧ソ連の計画経済の欠陥による物の不足はこのインフォーマル・セクターを活性化させる側面を持っていたという指摘もある。このような政府が把握できない経済活動に課税できないという点が課題として挙げられる。もっとも、地域共同体を行政に組み込むことなどがされているようだが。

「バザール経済」。私がこの言葉を知ったのはこの中央アジアゼミの初回である。経済というとどうしてもミクロ、マクロ、効用関数・・・などなど固いイメージが浮かんできてしまい敬遠しがちな私にとって、この文化的な側面を多分に持つ「経済」は親しみやすく思えた。相互の利益のためとはいえ、商売が信頼によって成り立っているのは弊害があるにせよ素敵なことではないかと思う。今もその制度が残っているのかはわからないが、信頼がその場で清算される現金支払いを嫌い、返済方式が好まれることがあるそうだ。映画などで見る日本にもある「ツケ」の文化と似ているのだろうか。経済の近代化、現代化が進むにつれて、こういった伝統的な経済はどのように変化していくのか。世界中の他の都市がそうであったように、全てが規格化され、画一的な経済に組み込まれてしまうのは少し悲しい気がする。

 

参考:『「見えざるユダヤ人」とバザール経済』 堀内正樹

『ウズベキスタンの慣習経済』 樋渡雅人

(文責:文科二類二年 高川)

 

中央アジア・ウズベキスタンの伝統音楽・楽器

公開日:2011年8月28日

投稿者:uzstudent2011s

中央アジア…というと、独特の音楽、きらびやかな衣装、というのが個人的な印象である。そこで、ウズベキスタンの人々の民俗、生活を知る端緒として、中央アジア、ウズベキスタンの民族音楽、楽器について調べた。

▼中央アジアの民衆音楽、楽器

中央アジアの伝統音楽は、各民族の十九世紀までの生活形態によって大別することができる。遊牧民(カザフ人や、クルグス人)の音楽と東西トルキスタンの定住農耕民の音楽である。中央アジアでは、これらの伝統音楽を民衆音楽(ロシア語:narodnaia muzyka)と呼ぶことが多い。

遊牧民の音楽はシンプルな弦楽器による独奏や弾き語りである。(例外として、トルクメンは弦楽器と弓奏楽器の小合奏が一般的である。)現在では、主な弦楽器は民族ごとに規格化されているが、元来は多様な地方様式を持っていた。そのため、中央アジア各国に伝わる代表的な弦楽器は似通った特徴を持っている。また、住居を移動させる遊牧民にとって、軽くて移動に便利なものが好まれたため、弦楽器に限らず、民族楽器には軽くて持ち運びやすいという共通点がある。中央アジアの民族楽器は、現代の楽器の原型となるものが多くあるが、古くから東西アジアの交流の中継地となっていたため、これら民族楽器の特徴は一部の東西アジアの伝統楽器にも伺える。たとえば、日本の「琵琶」は、外見だけでなく、弦の仕組みも中央アジアの弦楽器と似ているそうだ。

かつて、文字を待たない遊牧民は、弦楽器の独奏・引き語りによって、口承文芸を後世に伝えていた。カザフ、クルグスには、キュイという器楽独奏のジャンルがあり、各キュイには付随する伝説が伝わっている。かつての演奏者はキュイの演奏に先立って伝説を聴衆に語ったそうである。(歴史や習俗、信仰、世界観などが凝縮されている口承文芸は、人々にとって娯楽であるとともに、自らのアイデンティティを強める重要な存在であった。しかし、現在では、各国に数十から数百の語り手が活躍するばかりになっている。)

定住農耕民の音楽の代表的なものは、マカームという形式の音楽である。これは、マカームという一定の旋法とリズム型に基づいて演奏される組曲で、西アジア全域にも共通して伝わる。マカーム音楽にも地方様式があり、現在にはブハラ、、ホラズム、フェルガナのマカームが伝えられている。固定的な要素と即興的な要素を併せ持つのが特徴的である。マカームで用いられる楽器は非常に豊富で、独奏と斉奏を重視する。

▼ウズベキスタンの民衆音楽、楽器

ウズベキスタンのお祭り、割礼、結婚式などお祝い事には、伝統音楽と、そして舞踏がつきものである。演奏に用いられる代表的な楽器は、スルナイという管楽器、タンブール、ギジャクなどの弦鳴楽器、ドイラという打楽器、ナイという横笛である。

スルナイ:杏の木やクワの木から作られる。吹き方、形ともオーボエに非常に良く似ている。

タンブール:洋ナシ型あるいは半球型のリュート属撥弦楽器

ギジャク:四本の弦を、弓を用いて演奏する捺弦楽器

ドイラ:タンバリンに似ている。ドイラと歌のみで女性が踊る伝統舞踊の形式がさまざまにある。

ナイ:竹製や木製の横笛。音は尺八に似ている。

ウズベキスタンの民族舞踏は、何度も高速で回転する胡旋舞である。胡旋舞は女性の踊りで、誘惑の踊りであると共に自然や刺繍の様子などを表した踊りである。それぞれの動きには意味があり、肩を上下に動かしたり、首や手の動き、体の反りなどで表現する。

ホルズム・ブハラ・フェルガナ地方の踊りが有名である。

***

先日、フィールドワークの一環として、ゼミ生と都内の某イラン料理店へウズベキスタン料理を体験に行った。幸運にも、ダンスショーが行われる日で、中央アジアの伝統舞踏も体験することができた。胡旋舞と知っていたし、ネット上の動画で見たこともあったので、どんなものだろう、と軽い気持ちで期待していたが、実物は想像以上に躍動的で魅惑的な踊りであった。とにかく回る回る回る回る、、、それに、速い。私は思わず、お稽古の苦労を想像してしまった。(踊り子はおそらくすべて日本人であった。)首、腰、腕、手先の動きは、とても斬新で、神秘的に見えた。踊り子たちは始終笑顔を絶やさなかったため、どこか妖艶な雰囲気さえ感じた。途中、お客さんがドイラと思われる楽器で拍子をとり、それにあわせて踊り子が上体を反り返らせる、という踊りもあった。クライマックスには、踊り子の誘導でわたしたちゼミ生やほかのお客さんも踊りに参加した。踊り子の見よう見まねでリズムにあわせて踊っていると、私を含めみんなが楽しそうで、店内が一体化しているような心地がした。こんな結婚式やお祝い事は格別にすばらしいに違いない、と思えて、ウズベキスタンに行くのが楽しみになった。おそらく、本場の舞踏はさらに迫力があって、メッセージ性も高いのだろう。ウズベキスタンの伝統舞踏を目に焼き付けて(できるなら、すこしでも体にしみこませて)きたい。

文責:文科二類一年 藤沢

なぜ観光なのか?

公開日:2011年8月28日

投稿者:uzstudent2011s

今日はなぜ僕がウズベキスタンの観光について興味を持ったのか。

また、何を目標にウズベキスタンに行くかについて書きます。

そもそも最初に経済班でウズベキスタンやそのほかの中央アジアの国々の統計データについて調べていた際に、観光収入というデータを発見し、サマルカンドなどの歴史的に有名な都市を始めとした豊かな観光資源があるのに他の国々に比べてあまり観光収入が大きくないことに着目したからです。

ウズベキスタン:観光客107万人、観光収入6400万ドル

カザフスタン:観光客127万人、観光収入11億ドル

キルギス:観光客244万人、観光収入5.7億ドル

トルクメニスタン:観光客8000人、観光収入1.9億ドル

タジキスタン:観光客4000人、観光収入2400万ドル(2011 Data Book of The WORLD 二宮書店出版より引用)

五ハン国における観光に関するデータの比較ですが、ウズベキスタンの観光収入は五ハン国の中で明らかに低い(下から二番目)うえに、順位が一つ上のトルクメニスタンの約三分の一ほどしか収入が無いです。

観光資源については負けていることはもちろん無く、世界遺産の登録件数を比較してみても、ウズベキスタン:文化遺産が4個、カザフスタン:文化遺産が2個、自然遺産が1個、キルギス:文化遺産が1個、トルクメニスタン:文化遺産が3個、タジキスタン:文化遺産が1個

となっています。

また、もう一つの理由として日本でも国の経済政策として観光という分野が着目されるようになったことがあります。2009年の鳩山内閣では観光が経済成長分野の柱に位置され、観光立国推進基本法、観光立国推進基本計画によって観光立国の実現が目指されています。観光の形態自体も高度な医療を目的としたメディカルツーリズムなど多様化が進んでおり、非常に興味深い分野となっています。

残念ながら日本の人たちでウズベキスタンに行ったことがあるという方にはほとんどお会いすることがありませんが(実際に日本人のウズベキスタン渡航者は年一万人以下)、SNS上でウズベキスタンに行ったことがある何名かの方々に、ウズベキスタンに行った際の不便だった点・日本人があまりウズベキスタンに行かない原因となっているものは何かとアンケートを実施したところ、不便だった点は公共交通機関や一部施設で写真撮影が禁止されていること、宿泊毎に滞在者登録が必要なこと、悪質な警官がいるなどが挙げられていました。日本人があまりウズベキスタンに行かない原因に関してはほとんどの人が一致して①ウズベキスタンそのものを知らない人が多い②ウズベキスタンと聞くと、アフガニスタンなどを連想し非常に治安が悪そうに感じるという二つの原因を挙げていました。

そこで、僕が今回ウズベキスタンに行く際の個人的な目標として①日本とウズベキスタン双方でお互いの国に観光する人が増えるにはどうしたらよいかについてしっかり考えること②若者である自分の目線から見て日本人の若者が気に入りそうなウズベキスタンの魅力について見つけてくることの二つを設定しました。

現地で深い知識を得るために出発直前まで、読書などを通して観光関連の知識をさらに身につけていきたいと思います。

文責:文科Ⅱ類八木雄介

ウズベキスタンの交通

公開日:2011年8月28日

投稿者:uzstudent2011s

‘ウズベキスタン’と聞いて、明確なイメージを持てる日本人は少ないのではないかと思う。友人や家族などと話していても、「そんなところに行っても大丈夫なの?」とか、「ウズベキスタンって何があるの?」とか、そういったやりとりは数多くあった。実は、私もはじめは同様に、’ウズベキスタン’といえば、高校世界史で習ったように、’文明の交差点’だとか、CISの一員といった漠然としたイメージしか持っていなかった。自分にとって未知の領域に踏み込む、そんな好奇心も働いて、当ゼミを履修するに至った。

私は、’経済班’の一員として、ウズベキスタンの観光産業を中心に調査を進めてきた。その調査の過程においては、様々な困難がつきまとった。例えば、日本語の文献では十分な情報が得られないこと、場合によってはロシア語等でないと情報が見られないということ、あるいは、国の体質として、統計等の情報が十分には公開されていないことなどが挙げられる。もちろん、私の力が及ばない部分が多いこともその大きな一因として挙げられるが、以下に、微力ながら、交通についての簡単なまとめを記す。このとき、班の方針として、’日本からの観光客を呼び込む’というテーマがあるため、そこにも触れながら話を進める。

ウズベキスタンの主な観光地は、首都のタシュケントや世界遺産の存在するヒヴァ、ブハラ、シャフリサブス、サマルカンドである。それらの都市の位置関係は下図のようになる。衛生写真からも分かるように、これらの点在するオアシス都市以外には広大な砂漠が広がっている。

 

 

 

 

 

 

(Google Earthより)

 

ウズベキスタンにおいては、これらの都市をつなぐ交通手段としては、主に、鉄道、バス(タクシー)、航空機が挙げられる。以下、それぞれを個別に見ていく。

・鉄道

 

 

 

 

 

 

 

(OrexCA.com より)

 

上図がウズベキスタンにおける鉄道網である。先の衛生写真と見比べて分かるように、点在するオアシス都市を通るように敷かれている。オアシス都市をつなぐものとしては、’Registan’,’Sharq’,’Sanaf’といった高速鉄道が走っており、例えば、タシュケント-サマルカンド間を3時間半ほどで、タシュケント-ブハラ間を6時間半ほどで結んでいる。料金は2つの席種に分かれており、それぞれの便において、25,000スムと15,000スム、22,000スムと34,000スムとなっている(1円≒22スム)。

・バス(タクシー)

 

 

 

 

 

 

 

(国土交通省ホームページより)

 

上図がウズベキスタンにおける主な幹線道路である。これも鉄道網と同様に、オアシス都市間をつなぐ大動脈となっている。残念ながら、バスやタクシーについてはなかなか有力な情報源を見つけることができなかったため、主に個人ブログや口コミを参考に情報を収集した。それによると、タシュケント-サマルカンド間は定期バスが走っており、十分に快適でかつ鉄道を利用するよりも割安で済む(7米ドルほど)ということ、サマルカンド以西については、乗合タクシーを利用する場合が多いということなどが分かった。また、交通費は交渉次第で変動する可能性が大いにあり、その価格はドルベースで決められることが多いという。

・航空機

 

 

 

 

 

 

 

(Uzbekistan airway ホームページより)

 

上図がウズベキスタン航空の国内線の就航路である。基本的に、首都タシュケントがハブ空港としての役割を果たしており、主要都市へは一日で複数便の定期便がある。タシュケント-ウルゲンチ間など、鉄道やバス・タクシー等の利用では時間的な負担が大きくなってしまう移動の際によく使われる。一方、価格は割高となり、例えば、タシュケント-ブハラ間は1時間半前後で移動できるが、71,000スムほどの金額となる。

 

以上、3つの交通手段について見てきたが、料金や時間などについて一長一短があるという印象が残った。しかしながら、それぞれの快適さ、利便性などは実際に利用しない限りは妥当な評価を下すことはできないと思うので、現地に行った際に、自分自身で体験したいと思う。

 

文:文科二類2年 田村 悠

中央アジアの歴史小話2

公開日:2011年8月28日

投稿者:uzstudent2011s

大宛国の首都
近代以前に中央アジアに興亡した数多の国の歴史には不明な点が多い。このことは前回の記事でも述べたことであるが、今回はそのような謎を解明するために行われた研究の一例として、前回の記事で触れた大宛国についてもう少し掘り下げようと思う。例によって細かいトピックになってしまうが、どうか勘弁していただきたい。今回のテーマは大宛国の首都についてである。
大宛国の首都の所在は明らかでなく、これについて学者たちが様々な説を主張し、その論争は現代に至ってもなお収束のめを見ない。これからその論争の過程を軽く見ていく訳だが、その前に大宛国についていくつか補足しておこう。

大宛国②
大宛国はイラン民族の定着農耕社会であり、人口は数十万の規模であったとされる。その位置については前回述べた通り諸説あるが、ここではフェルガナに存在していたと仮定しよう。大宛とは「広大なオアシス」の意であったらしく、ぶどう酒や馬が主産物であった。「史記」の記述によれば、前述のように、張騫の報告によって汗血馬の存在を知った前漢の武帝はこれを強く欲し、使者を大宛国に送ってこれを求めるも、すでに大量の漢の物産を得ていた大宛の王はこれを拒否、怒った武帝は大軍を派遣し、二度の攻撃の末に宛都と記される「弐師城」を攻略させ、服属せしめた。

弐師城と貴山城
武帝の軍によって陥落した弐師城は、宛都と記されていることから、大宛国の首都であったことは疑いようがない。しかし一方で「漢書」では大宛国の首都は「貴山城」であったと書かれている。ここで様々な憶測が飛び交うことになる。この二つはまったく違う場所でどちらかが誤った記述なのか、はたまたひとつの首都が時代によって異なる名前で呼ばれていたのかといった具合である。この疑問に対する明確な結論は未だ出ていない。しかしながら、現在では二つの都市がどちらも大宛国の都を指しているとの見方が趨勢であるようなので、ここにおいてもこれを前提に話を進めていくこととしたい。

首都はどこか
ここまで見てきた分だけを見ても、大宛国は不明な点が多くあることは明らかであろうが、ここでさらに別の疑問が出てくる。大宛国の首都、すなわち弐師城ないし貴山城は現在のどの都市に比定されるのか、というものである。これに対する論争は一時期非常に盛んになり、多くの学者が「弐師」や「貴山」がどのような音に対して当てられたものかという考察や、「史記」「漢書」の記述から地形や川の流れなどから位置を推測する作業などを通してこの謎に包まれた首都の位置を解明しようと努力を重ねてきた。各々の学者が主張する首都の位置はフェルガナ地方を中心に広く散らばっており、それらすべてをここで紹介するのは不可能である。そのためここでは私が興味を持った二つの説を紹介しよう。

A・N・ベルンシュタムの主張
ソ連の考古学者ベルンシュタムは、オシュの郊外に馬の岩壁画を発見し、これを有力な手がかりとして、そこから遠くない位置にあるオシュ河岸の廃墟マルハマトを首都に比定している。彼は問題の岩壁画に描かれた馬の外観がモンゴリアや西アジアのそれと異なる特徴を持っていることを指摘し、これこそが汗血馬を描いたものであり、岩壁画が描かれたこの場所が馬の繁殖を願う信仰の場であったというのである。したがって、首都はここからそう離れていない位置に存在していたと推理し、遺跡発掘の結果堅固な城壁を持っていたことがわかった廃墟マルハマトにたどり着いたのである。ベルンシュタムは発掘報告において、遺跡で発掘された物品が紀元前2~3世紀のもので大宛国の時代と矛盾しないことや、中城や外城の存在が確認されたことも述べている。この説明で筆者は大いに納得したのだが、これだけの調査をもってしても、マルハマトを首都に比定する確固たる証拠はないのである。

「ニサ=弐師」説
もうひとつ紹介する学説は、「弐師」をギリシア人の言う「ニサ」という音に当てた文字であるとする説である。この説は西洋において有力視されており、19世紀から主張されている。一世紀のギリシア人地理学者ストラボンはニサをアムダリヤ川の南西にあったとしている。そうであるとするとニサはフェルガナに存在しなかったことになるが、これも確証はない。それではこの話をもう少し掘り下げてみよう。
ニサはギリシア神話において酒神バッカスがニサのニンフたちに育てられたというエピソードからきているが、この地名はアレクサンドロス大王の遠征以前からこの地域にいくつも存在している。それらがすべてこの神話からきているとも限らず、たかが二音節のため偶然の一致とも考えられる。ニサという地名が酒神とかかわりがあることからぶどう酒が連想されるが、フェルガナ以外の地域でもぶどう酒は広くつくられているためヒントとはならないだろう。いってしまえば、仮にニサ=弐師の学説が正しいとしても、そのニサが現在のどこに当たるかを突き止めるのは不可能に近いのである。

これからの展望
ここまで大宛国にかかわるいくつもの研究を紹介してきたが、多くの学者の懸命の努力にもかかわらず、いずれも答えは出ていない。当然、私のようなシロウトがこの問題に対して解決の光を当てることなど到底かなわない。しかしながら、現地で大学生に対してのヒアリングを通し、現地の人がこの問題に対してどのような認識を持っているのかを(おそらく大半の人はこの国の存在すら知らないかもしれないが)調べてみたい。ほかにできることといえば、ウズベキスタンの地に立ち、はるか昔にこの地を駆け抜けた名馬に思いをはせることであろうか。

文責:文科二類二年 藻谷

政治体制

公開日:2011年8月27日

投稿者:uzstudent2011s

リビアでカダフィ政権が倒れた。

自国民に対する非人道的な抑圧と殺戮を長年にわたり続けてきた支配者を追放し、民主化の旗を振りかざす反カダフィ勢力の姿は、ともすると微笑ましいものなのかもしれない。

しかし今後「アラブの春」が平和裡に戦地を包み込んでいく光景は想像し難い。また、「独裁=悪」の類の絶対的観念が我が国においてどうも拭い去られていない感がある。

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この文章を綴るまさに今の、民主主義の日本の政治体制を考えさせられる。

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アンディジャン事件およびその後の外交姿勢を欧米よりの視点で捉えると、カリモフ大統領を長とする権威主義体は、その性格の一面をひどく強調され、人権侵害が云々という議論にしか発展しないようにも思えてくる。

統計データや契約内容の不透明性ゆえに信頼醸成に至らない、近代国家に求められる法律が整備されていない、そういった点から西側諸国ないし国際的なファンドから融資を受けにくくなり、例えばインフラ不足という事態の解決を遅らせうるものかもしれない。

一方で、発展途上国が国内産業育成などを主たる目的として幾分か強権的になることは歴史の中で珍しいことではないことと思う。地理的・文化的な密接性、貿易相手や輸送ルート(内陸国のウズベキスタンが海洋と結びつくにあたっては新疆ウイグル経由で連雲港につなぐのが簡便。(ジェトロ「中央アジアで拡大する中国のプレゼンス」2008年、ジェトロ 62頁より))といった経済的重要性を鑑みたうえで、政治体制の理解にさほど齟齬をきたさない中国との関係を良好に保つことだけを第一義的に考えることも十分に最適解たりうる。

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中央アジア外交の舞台に日本の姿は目立たない。ただ日本の資金援助(下表参考)は、地域別に見て比重が小さいという見方もできる一方で、各国と比較した際には十分な貢献度を保持してきていることは否めまい。「対シルクロード外交」や「中央アジア+日本」を標榜するその姿勢を顕在化させるためには、今以上のプレゼンスと独自性が必要ではないだろうか。

両国の間に複雑な歴史的背景があるわけでもないし、内政干渉擦れ擦れの政治問題を俎上に載せることなく、その潤沢な資金と民間団体とによる効用をどう最大化するかに絞っていくのもよいと思うのだが、どうだろうか。

相手国の政治体制への違和感が協力の足枷となるようでは勿体無い。

出典:外務省 政府開発援助(ODA)国別データブック 2010

(文 : 文科Ⅰ類2年 野崎拓洋)

ウズベキスタンの結婚式

公開日:2011年8月26日

投稿者:uzstudent2011s

前回はウズベキスタンの「今」を象徴するウズベキスタン・ポップスを紹介したので、今回はウズベキスタンの伝統儀式の一つである結婚式について紹介したいと思う。結婚式ももちろん音楽と舞踊をこよなく愛するウズベキスタン人がよく表れている儀式だ。

ウズベキスタンの伝統的な結婚式は人生の一大イベントであり、親族がたくさん集まって行われる。田舎では今もこうした伝統的な結婚式が多く行われており、ホテルでの結婚式が多くなってきている都会でも内容においてはウズベキスタンの伝統を色濃く見ることができる。

伝統的な結婚式ではまずホトハ・トゥイと呼ばれる婚約の儀式が親の賛成と祝福によって段階ごとに行われる。成年に達した男性の親は息子にあう女性を探し始める。女性が見つかると、親とおばさんたちは女性の家に行き、息子にあう女性かどうかを判断する。あうと判断されれば、仲介人が選ばれ、仲介人は婚約日を発表、女性の家に女友達や親せき、マハッラの長老たちが集合、儀式を執り行う。ここでPATIRと呼ばれるパンを切り分けることで婚約が確定する。終わりに仲買人は結婚式の日付を決定、仲買の皆には女性の親からレピョーシカと菓子がくばられる。

結婚式の日の一大イベントといえば何と言っても朝プロフだ。朝の5時から200名ほどの客人にプロフを振る舞う。これは、花婿から送られた米、油、にんじん、羊の肉を用いて花嫁の家で行われる。朝プロフは男だけの行事で、食べるのも男なら作るのも男である。伝統的な歌を歌う歌手なども呼ばれて食事会が催される。

朝プロフが終わると花婿と花嫁は、結婚届けを提出しに行く。この後、レストランに集合してまた歌を聴きながらの食事会が催されることもある。

夜には盛大な披露宴が催される。これはとても大きな規模のもので、また歌手を呼んで食べ、歌い、踊る宴会の時間が続く。このとき呼ばれる歌手は国でも有名な歌手であることが多く、紅白歌合戦のような盛大な結婚式が行われる。これはウズベキスタンの結婚式の大きな特徴であろう。このダンスの時間には祝儀のお札も飛び交う。

披露宴が終わると新郎は新婦を連れて帰る。そして、翌日の朝には新婦の挨拶という行事がある。花婿は花婿の友人によって連れて行かれ、花嫁は伝統的なショールをかぶって挨拶に来るみなに挨拶を返す。

これが終わると結婚の二日後にはまた、新婦の両親による女性だけのパーティーが開かれる。これはお互いのことをよく知るために行われるのだそうだ。

こうしたウズベキスタンの結婚式には200~400人の人が集まり、楽しいお祭り騒ぎが続くのである。

このように、ウズベキスタンの結婚式は、もちろん個人の祝いの席であるが、それと同時に家族・親族の祝いとしての機能も果たしているといえるだろう。それはコミュニティの中に新しく新婦という他からの人員が増えるお祝いの席であり、また新郎のコミュニティと新婦のコミュニティが新しく関係をもつお祝いの席でもあるのだ。結婚式には大勢の人が呼ばれるし、朝プロフなど結婚祝いの準備は家族・親族によって行われる。新婚夫婦が自分たちで全てをセッティングし、お祝いに人を招く欧米流の結婚式とは趣向も異なったものになる。

欧米では「私」とは独立した個人としての私であるが、それに対してウズベキスタンでは「私」とはコミュニティの中におけるあるいはコミュニティ同士の関係性における「私」であるのだ。こうした共同体への考え方は一昔前の日本にも似ているだろう。

ウズベキスタンでは近年マハッラの見直しが進んでいることもあり、政府を中心にこうした共同体の働きをより強めようとする働きがあるようだ。一方で若者を中心に生活はどんどんと欧米化してきており、結婚式もホテルで行われることが多く、今は親同士が決めた結婚ではなくて男女が自分たちで知り合って結婚ということも都会ではよくある。

生活スタイルが変わっていく中でいかに家族・親族、またローカルなコミュニティを維持していくのかは大きな課題であるだろう。生活の変化に合わせて個人を個人として規定していくようになれば、大きな自由が生まれ対等な立場の個人が出現する。一方で、そうした変化によりローカルコミュニティは消失し人々は存在のよりどころを失ってしまう。逆に共同体の力を強めていくことは生活基盤としての地域社会を提供するが、共同体が過度に機能すれば個人の抑圧やコミュニティ間の対立起こる可能性がある。

そうした中でこれからウズベキスタンがウズベキスタンとしてあるために作り上げていくべきコミュニティと個人との関係性の匙加減は、伝統かモダンかという問題とも相まって大きな影響を及ぼしているのではないかと思う。

(2年文科二類 鈴木)

ウズベキスタンポップス

公開日:2011年8月26日

投稿者:uzstudent2011s

日本においてはウズベキスタンの認知度はまだまだ低く、砂漠、シルクロード、サマルカンド…といったイメージがある程度なので、伝統音楽ならばいざ知らずウズベキスタンポップスといえばその認知度はさらに低い。しかし、ウズベキスタンポップスはなかなか味のあるもので日本にもコアなファンは少数ではあるが存在するし、大きなCDショップでは片隅にほんの少しだけだが紹介されている。音楽と踊りをこよなく愛するウズベキスタンの人々にとってポップスもまた生活に大きな比重をしめているようで、みなMP3で好きな音楽を聴いているらしい。

文化を考えるとき、伝統と最先端の中で何を自らの文化としてこれから押し出していくのか、というのはウズベキスタンのみならず日本においても重要な論点だ。そこで今回はこのポップスに焦点を当てて考えてみたい。

ウズベキスタンポップスはウズベク音楽の伝統を感じさせるものでその独特のこぶしの利かせ方は欧米や日本ではなかなかお目にかかれないようなものが多い。曲の終りに長い絶叫がはいるものが多いし、前奏や間奏で際立つ弦楽器の旋律はまさに中央アジアを感じさせる。とはいえ、欧米でよくあるポップスの一種であることは確かで種類もラップのようなものからバラードのようなものまで様々ある。またプロモーションビデオなどでは最先端のもの、今ウズベクの人々に「かっこいい」と思われているものを少しだけ感じ取ることができる。かなり露出度の高い衣装と、曲によって全く雰囲気を変える化粧ははじめて見た私にとっては驚きであった。プロモーションビデオはクオリティの高いものが多く、日本で見られるものとほぼ同様だが、ストーリーもののコミカルな(?)ストーリー設定や夢を見ていただけだったというパターンが多いことなどは特徴といえるかもしれない。また一方で、伝統のアトラス模様の衣装でタシケントやサマルカンドなどの有名観光地で歌うプロモーションビデオも少数ではあるが存在し観光ビデオとしても有効そうで興味深い。

今ウズベキスタンで人気の歌手は、女性歌手ではRAYHON,SHAHZODA,SOGDIANA,LOLA,そして忘れてはいけないYULDUZなど、男性歌手ではSHAHZOD,BOJALAR,OYBEKなどだ。少しだけ取り上げて見るとYULDUZはウズベキスタン音楽界のまさに大御所で、日本人でも知っている人が多い、数少ないウズベク歌手の1人だと思われる。彼女は政府とも深いつながりがあったようで、国の大きなイベントなどでよく歌っていたのだが、2005年政府と関係が悪化して、今はトルコで活躍している。また、SOGDIANAはウズベキスタン生まれだがはじめはロシアで歌手として成功し、その後ウズベキスタンに逆輸入された歌手だ。SHAHZODAは美貌の歌手でロシア進出を進めているがそちらの方はあまりうまくは進んでいないそうだ。

こうして見てみると、ポップスにおけるウズベキスタンと周囲の国々との関係はなかなか興味深いものがある。ウズベキスタンにおいて、隣国のロシア、トルコはポップスに限らず最先端をいくお隣さんのようで、ファッションなどをみてみてもロシア製、トルコ製の洋服は少し高めでおしゃれ、と捉えられるらしい。音楽についても似たようなものがあって、ウズベキスタンは旧ソ連圏でロシア語が広く話されていることも手伝い、ウズベク歌手にとってロシアへの進出というのは一つの夢であるようだ。日本人歌手が欧米圏への進出を目指すのと似ているのだと思う。

一方でウズベク歌手のロシアへのあこがれは第三国の立場で見ると大変に興味深いものがある。歴史的に見てみると、ウズベキスタンをはじめとする中央アジアの国々は19世紀にソ連の支配下にはいった。ソ連以前には民族アイデンティティよりもムスリム・アイデンティティあるいはトゥルク・アイデンティティの方が強かった中央アジアの国々はその支配のもとで民族としてのアイデンティティを確立していった。ソ連の民族政策というのはその支配者ごとに変わる一貫性のないものであったが、それが現在の中央アジアの国々の民族アイデンティティに影響を与えているという側面も大きい。音楽を見てみると、この時代に弾圧された地域固有の音楽もあれば、逆に音楽学校が開かれて重視されるようになった音楽もある。また後者においては西洋音楽の枠組みで編曲や楽器改良がなされたりとソ連による取捨選択が反映されている。

1991年にソ連は解体し、中央アジアの国々は独立を遂げていった。こうして生まれた新しい中央アジア国家は各々その民族意識を強調に力を入れることとなった。そうしてその路線は現在にまで引き継がれているわけだが、その中でウズベキスタンのスター達があるいは若者たちが、ロシアに憧れを抱きロシア進出を望むという「ソ連圏人」としての行動をとるのは皮肉な様で大変に興味深い。と同時に、「欧米文化圏」であることを誇りにする私たち日本人の姿も皮肉として浮かび上がってくるように思う。

(二年文科二類 鈴木絢子)

文献『記憶の中のソ連―中央アジアの人々の生きた社会主義時代―』

公開日:2011年8月24日

投稿者:uzstudent2011s

人間は「未知」なものに対して不思議な魅力を感じるものである。私が中央アジアに興味を持ったのも、中央アジアに自分の知らない世界が広がっているのではないか?中央アジアには自分の知らない何かがあるのではないか?と期待したからである。そうしたことでこのゼミに入った私は、文献を中心として自分なりにウズベキスタンについて調べてきた。

しかし文献にはどうしても、統計データが羅列されていてリアルさが欠けているものや、ある一個人から見た、ある種の「偏見」が入ったものも多い。そうした中で現地の人々のリアルな声を収集するためにウズベキスタンで社会調査を行い、まとめた本がある。それが「記憶の中のソ連―中央アジアの人々の生きた社会主義時代―」(ティムール・ダダバエフ、筑波大学出版会、2010)である。今回はこの本を紹介してみようと思う。

この本の中に収められている調査は、2006年以降にウズベキスタンで行われた、現地に住む人々に対して行われた調査である。調査項目は多岐に渡る。調査においては、なるべく多くのことを聞き出すためにインタビュー方法や質問票に工夫を施している。また著者自身がウズベキスタンの出身であることから、調査に主観が入り、偏りが生じないように尽力している。

調査では様々なことが明らかになるのだが、この中で私が特に興味が惹かれたのが、ウズベキスタンの人々が意外と旧ソ連の時代に対してノスタルジーを感じている、という調査結果である。彼らの中には、かつて存在していた旧ソ連という大国の存在が消失したことに対して悲しみ、そして現在の生活状況と比較して、旧ソ連の時代は豊かな暮らしができていたというノスタルジーを感じる人がいるのである。

こうした現象を目にすると、歴史における「記憶」の重要性と危うさを感じずにはいられない。歴史においてこうした「オーラルヒストリー」的なものを残していくことは重要である。しかし周知の通り、当時のウズベキスタンには他の社会主義国と同様、制限や弾圧、物資不足などの問題が存在していた。にもかかわらず、そうした事実はこのインタビューからは伺いにくい。つまり、彼らは今の状況を悲観しているが為に、かつての旧ソ連の時代を必要以上に美化している可能性が高いのである。

さらにこうした事実から伺えるのは、社会主義国がその負の側面を如何に国民の目に触れないようにしていたか、ということであろう。しかしその実態がどうであったかは、資本主義国に生きる我々には非常に理解しにくい。(私も指摘されるまで気付かなかった)現地に行ってこうした事実の一端でも知ることができたら、と思った次第である。

日本ではなかなかない貴重な調査をまとめた本であり、ウズベキスタンに行く前に一読する価値はあるだろう。是非目を通すことをおすすめする。

(文責:文科二類二年 西田)

 

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