中央アジア散歩 2011年夏学期 全学自由研究ゼミナール

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映画『UFO少年アブドラジャン』

公開日:2011年8月20日

投稿者:uzstudent2011s

前回は中央アジアの映画産業についてまとめたが、今回はウズベキスタンの映画作品をひとつ紹介したい。川名君が記述しているように、中央アジアの映画というのはなかなか日本では見られない。その中で、数少ないDVD化された作品である『UFO少年アブドラジャン』という作品を取り上げたいと思う。

『UFO少年アブドラジャン』は1992年にズリフィカール・ムサコフ監督が撮った作品で舞台はソ連時代のウズベキスタンのとある農村である。
ある日、その農村で集会が開かれている最中、議長がモスクワからの電報を読みあげた。その内容は宇宙人を乗せたと思われるUFがその農村に向かっているから宇宙人を発見したら報告するように、というもの。農民たちはUFOを知らないので、空からお客さんが来るらしいとののんびりとした解釈をした。そんな中、農夫バザルバイは奇妙な円盤型の物体が空から墜落してくるのを目撃した。近づくと裸の少年が倒れており、バザルバイは彼を助け出しアブドラジャンと名付け家へ連れて帰るのであった。バザルバイとその妻が面倒を見始めてから、アブドラジャンは次々と奇跡を起こしてバザルバイや農村の人々を喜ばせる、というストーリーである。

実はこの映画、冒頭に以下のようなナレーションが入る。
「拝啓、スティーブン・スピルバーグ様
この間、あなたの作品『E.T』を見ました。とても素敵な作品でした。実は私たちの村にも先日UFOが本当にやってきました。そのことを書いたので読んでください。」

つまりこの作品は、スピルバーグへの手紙を読むという形で語られているのである。私はこのアメリカのポップカルチャーと中央アジアの田舎の組み合わせが、実に面白いと思った。私たちが見慣れている、CGで何でもできるハリウッド映画や我が国の映画とは違う。人間の10倍もあるような巨大なスイカや、糸でつられた鍋をひっくりかえしただけのようなUFOは非常にチープな作りである。だが、この映画を見ると癒されたような優しい気持ちになれる。

この作品が作られた1992年は独立の翌年だ。ソ連の統制下でウズベキスタンの人々がどのような生活を送っていたのかはわからないが、きっと独立時に祖国再建を夢見、希望を持ったことであろう。これから創ろうとする自分たちの国。世界の人々との繋がり。その中で『E.T』に彼らは共感したのかもしれない。侵略者や敵としての異星人ではなくて、友達としての異星人。敵としていがみ合うのではなく、世界の国々と親友として繋がっていきたいという夢が重なったのではないかと思う。この映画からはそのような優しさが感じとれる。

事実ではなくて素朴な農民が書いた「手紙」という形式をとったこと、その宛先が記者ではなくスピルバーグであることがこの話をおとぎ話の雰囲気にしている。その雰囲気の中の低予算・低技術が逆に良い意味での手作り感を作り上げている。映画といえば、普段アメリカ映画などの予算のかかったCGを使ったものに多く触れるが、これもまた映画の形のひとつである。

2002年に大使館主催でウズベキスタン映画祭というものが開催されていたらしい。
中央アジアの映画にはDVD化されている作品が少ないだけに、このような映画祭がもっと開かれて中央アジア映画が浸透すれば、と思う。

(文責:文科2類2年 鹿田)

中央アジアの映画産業と考察

公開日:2011年8月20日

投稿者:uzstudent2011s

私はこのゼミを通して中央アジアの映画について興味を持ち、調査をしてきた。中央アジアの映画は日本ではあまり見る機会がないが、ソ連時代も含め映画製作が活発に行われたこともある。今回はウズベキスタンを中心に映画産業の歴史とその考察をしたいと思う。

タシケントでは1897年、最初の映画の上映が行われたという。当時ソ連は映画を、プロパガンダとして政治的な思想を広めるための利用を国家レベルで考えた。そのため、中央アジアの各地でも1920年代には映画製作の拠点が数多く作られている。ここで製作された映画は当初、ドキュメンタリー映画や短編映画が中心だったがそのうち技術の向上などにより劇映画も作られるようになった。第二次世界大戦に突入すると、ソ連の欧州部にあった映画撮影所は敵国の侵攻を受けて中央アジアに場所を移した。当時の映画の大半がここで作成され、その後の中央アジアの映画産業で働く人材の育成の場とも同時になったのであった。戦後60年代になるとモスクワや現サンクトペテルブルグで映画教育を受けた人々が各地の撮影所で映画を作成するようになった。この時期の映画にはソ連国外でも高く評価されているのもが多い。(川名君が紹介しているボロトベク・シャムシエフの『白い汽船』もその一例である)1991年に各共和国が独立した後は、製作本数は激減した。ソ連の計画経済の下であったら、内容の検閲など自由の利かない部分もあったがその反面予算などは確保されていたため独立後は衰退してしまったのである。

ウズベキスタンに関しては、ソ連時代ではこの地域での映画の製作がもっとも盛んであったのに独立後は衰退した。しかし、90年代末からは政策で年5本前後の製作が国家予算で保証されるようになった。国内の映画館設備は老朽化が激しく、また映画館内のマナーなども悪いという。さらにテレビやビデオを通じて映画が出回っているが、必ずしも国内映画というわけではなく外国映画が多いという。

ウズベキスタンの映画産業は岐路に立っていると思う。現在は、低予算で低技術の映画しか作れず、マーケットを意識しきれていない状況である。もしも映画を産業として、国際的に規模を拡大したいとするのならば、国際マーケットを把握してニーズにあったものを生み出していかなければならない。その動きとして、ウズベキスタンの映画監督には外国との合作を発表している人もいる。
授業中や昼休みに文化班の人とディスカッションを行い、文化面でのウズベキスタン、中央アジアについて話したが、映画に関係していてその時気がついたこととしては、
・ソ連時代の影響を受けていること
・そのために欧米の文化、流行が主流の国際マーケットに対応できていない
ということがあげられる。
例えば設備や映画を作る方法などはソ連からの影響を受けているし、従来の国内向けの作品で国外で評価されているのはわずかな上、前述したように国内でも外国映画ばかりがみられている状況である。

今、岐路に立っている映画産業だが、外国が合作を行う場合も少なからずあり、この地域の映画に対する期待は低くない。今後産業として強化していくのであれば、しっかりと現状を把握しマーケットを開拓して行くべきだと思うが、私個人としては、ハリウッド映画などにはないようなのんびりとした空気の流れるウズベキスタンの映画が好きだ。次回はウズベキスタン映画をひとつとりあげてその紹介をしたいと思う。

参考文献:「中央アジアを知るための60章」 宇山智彦 明石書店

(文責:文科2類2年 鹿田)

タシケントの見どころ&ウズベキスタン観光業考察

公開日:2011年8月14日

投稿者:uzstudent2011s

タシケントはウズベキスタンの首都であり、約220万人以上の人口を擁する大都会である。そこでは中央アジア唯一の地下鉄が走り、高さ375mのテレビ塔を始めとして近代的な大きなビルが立ち並んでいる。古くからオアシス都市として有名で、シルクロードの中継点として、中央アジアの交通の要衝であった。

タシケントの主な見どころの例を挙げる。

◆クカルダシュ・メドレセ

 クカルダシュ・メドレセは、16世紀にタシケントの支配者であったシャイバニ朝のクカルダシュによって建てられた神学校。現在でも神学校として使われている。

◆チョルスー・バザール

地下鉄チョルスー駅を出てすぐの場所にあるバザール。クカルダシュ・メドレセとも近い。タシケントには大きなバザールがいくつかあるが、『古いバザール』と呼ばれるのはチョルスー・バザールだけである。チョルスーは『4本の道で囲まれた場所』 という意味。バザールの中心に青いドームのついた屋内バザールがあるのが特徴になっており、屋外では衣類など日用雑貨が多く、屋内では香辛料やドライフルーツなどが並んでいる。人と物で溢れかえって熱気があり、 日常生活で必要なものは基本的には購入できそうである。

◆ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場

ウズベキスタンの首都タシケントの新市街にある1500人収容の劇場。1947年に完成した。外見は淡い茶色で、6つの休憩ロビーは、タシケント、サマルカンド、ブハラ、ホレズム、フェルガナ、テルメズの6地方のスタイルで装飾されており、玄関正面の大きな噴水も特徴的である。この劇場は、実は第二次大戦後にタシケントに連れてこられた日本人抑留者の強制労働によって建てられたもので、1966年の大地震でもびくともせず、日本人の建築技術の高さを物語っている。

◆ウズベキスタン歴史博物館

タシケントの新市街にある博物館。中央アジアでは最も大きい博物館で、石器時代からロシア帝国の征服以降の歴史まで、ウズベキスタンの通史をざっと知ることができる。

最大の見物は、テルメズ近郊のファヤーズ・テペ遺跡から出土した穏やかな顔が印象的なクシャン朝時代の仏像で、他にも二階には石器時代からの鏃や土器、人骨、ゾロアスター教寺院の復元模型、三階にはロシア帝国の征服以後の歴史、独立後の展示品が置かれ、現代の産業についても見ることができる。

ブハラ・タシケントの概要と見どころをまとめたところで、最後に、これまでの調査のまとめとしてウズベキスタン観光の現状と課題について述べたいと思う。

◆現状

これまで挙げてきたような見どころを始めとして、ウズベキスタンにはシルクロードの起点であったこともあり、歴史的建造物など観光資源が豊富にある。

しかし、日本からウズベキスタンへの観光客は、年間約4千人でビジネス客は約2千人であり、上に挙げたような豊富な観光資源と比べればその数は多いとは言えない。

◆課題

上に述べたように、ウズベキスタンには観光資源が豊富なのにも関わらず、観光客数が少ない原因としては、交通の便が良くない(例えばウズベキスタン航空の便は週2便と少ない)ことやホテルの施設が良くないことなどがまず挙げられるが、根本的には、観光業を行う基盤が行政側・民間側にも整っていないことが原因である。例えば交通網の整備が不十分であったり、観光客向けのサービスが整っていないことがある。

さらに日本にもウズベキスタン観光を取り扱っているエージェントが少ないことも大きな問題である。そのため、手軽にウズベキスタンに観光に行くことができないばかりか、そもそもウズベキスタン観光についての情報を得ることすら難しい。

知名度やイメージにおいても重要な問題がある。海外旅行をしようというときに、ウズベキスタン観光をしたいと思う人は相当のマニアでない限り殆ど皆無であろう。そもそもウズベキスタンには観光地として「気軽に」行ける国というイメージはなく、治安やテロの可能性といった点で不安を抱く人も少なくないだろう。

先述したように、ウズベキスタンにはいくつかの世界遺産をはじめとした観光資源が数多くあり、サマルカンドやシルクロードのイメージと合わせて世界でも主要な観光地となる可能性を秘めている。そのためには、行政・民間双方から観光基盤を整理し、インフラの整理や、観光客向けのサービスを充実させることが必須である。また、日本のツアー客を募集するための母体が少ないのは、ウズベキスタン側のエージェントが日本側と契約できないケースが多いことが大きな原因となっていることも多いから、ウズベキスタン側と日本側のエージェントが円滑に交渉できるよう環境を改善することも重要である。

また、観光地としてのウズベキスタンのイメージ向上のためには、広報を充実させると共に、治安改善のための努力を重ね、地道に信頼を得ていくしかない。

(文責:文科2類2年 榊原)

ブハラの見どころ

公開日:2011年8月14日

投稿者:uzstudent2011s

ブハラは、ウズベキスタンの都市で、首都タシケントの南西約450kmに位置する。ユネスコの世界遺産に登録されているブハラは、かつてシルクロードの交通の要所として栄え、現在に至るまでイスラーム教の中心的役割を果たしてきた。中世のイスラーム哲学者・医学者であるイブン・シーナーはブハラ出身であり、この地で法典を著したことは有名である。

ブハラの主な見どころの例を挙げる。

◆カラーン・ミナレット

カラーン・ミナレットとはタジク語で「大きな光の塔」という意味で、高さが約46mありブハラで一番高い。1127年にカラハーン朝のアルスラン・ハーンによって建てられた、ブハラのシンボル的な建築物である。

◆カラーン・モスク

カラーン・ミナレットとつながっているモスク。現存している建物は1500年頃建てられたものである。広さは約1haもあり、1万人の信者が礼拝できた非常に大きなモスクである。正面入口は色タイルで装飾され、中央には青いドームがそびえている。

◆イスマイール・サーマーニ廟

サーマーン朝のイスマイール・サーマーニによって9世紀終わり頃に建てられた、中央アジア最古のイスラーム建築。特徴として、壁面のレンガが日差しの加減によりその凹凸の明暗が変わることで、色が変わって見えることがあり、レンガを積み上げただけでこれほど様々な幾何学的模様を付けている意匠には注目すべきである。サイズは9m四方、壁の厚さが1.8m、日干しレンガを積み上げた構造である。

◆チョル・ミナル

チョル・ミナルとは「4本のミナレット」の意。1807年にトルクメニスタン人の大富豪により建てられた。建物を囲う4本のミナレットと青タイルで美しく装飾された上部のドームが印象的である。

ひとまずここで筆を置き、次回はタシケントの見どころをまとめてから、これまでの調査のまとめとしてウズベキスタンの観光業の現状と課題について述べたいと思う。

(文責:文科2類2年 榊原)

中央アジアの歴史小話1

公開日:2011年8月12日

投稿者:uzstudent2011s

始めに
このゼミにおいて私は中央アジアの歴史に興味を持ち、調査を行ってきた。中央アジアはシルクロードの通り道として世界史に名を馳せており、アレクサンドロス大王やイスラーム軍、チンギスハーンといった他地域の侵攻を受け、様々な民族が入り混じって覇を競い、また文化的にも他民族の影響を受けて変容を繰り返してきた。しかし、このように非常に魅力的な研究素材を多く内包しているにも関わらず、資料の少なさもあってか中央アジアの歴史研究はあまり進んでいないのが現状であり、高校の教科書等での扱いも非常に少ない。このような研究対象としてのフロンティア性に魅かれ、私は中央アジア史を調べるに至ったのである。
とはいうものの、中央アジアの歴史は前述のように様々な要素を含んでおり、短期間に深く、且つ体系的に知るにはいささか困難を伴う代物である。したがって、中央アジアの歴史を俯瞰するであるとか、シルクロードの通商史において中央アジアの位置づけを行うといった大それたことはせず、いくつかの小さなテーマを設定し、それについて調べるという手法をとってきた。今回はこのブログでそれらのうちいくつかを紹介したいと考えている。
始めにことわっておくが、これらのテーマは各々がかなり狭い範囲を対象としており、これらの調査の価値を実感できない人が多く出てくるのも至極当然のことである。しかしながら、イスラームにおいて「神は細部に宿る」とも言われるように(かなりこじつけではあるが)、このような地味な調査も歴史を理解するうえで重要になってくるということを強調し、読者各位のご理解を頂きたい。
では、具体的な調査内容に入ろう。一つ目のテーマは汗血馬についてである。

大宛国①
汗血馬について語る前にまずは大宛国について述べねばなるまい。大宛国とは現在のウズベキスタン、タジキスタン、キルギス共和国にまたがるフェルガナ盆地に紀元前二世紀ごろから存在したとされる国である。この国自体は中央アジアにおいて無数に興亡した小国家のひとつに過ぎず、前漢の張騫がその存在を紹介するまではほとんど知られていなかったほどであり、詳細な歴史についてはわからないことだらけである。そんな国を世界史において一躍有名にしたのが、他ならぬ汗血馬である。

汗血馬
ではその汗血馬とはいったいどのような馬であったのか。汗血馬とは読んで字のごとく「血のような汗を流して走る馬」のことであり、(もちろん誇張であろうが)一日に千里(約500km)も走ると言われている。大宛国はこの汗血馬を多く産出したとされ、先述の張騫が汗血馬を大宛国の存在とともに武帝に報告すると、良馬の不足に悩んでいた武帝はこの類まれな名馬を強く欲するようになり、大宛国にこれを求め、最終的には軍をもって服属させるまでに至っている。また、三国志演義に登場する赤兎馬もこの汗血馬をイメージしたのではないかとされる。

汗血馬の正体
このように中国史に登場してくる汗血馬は、実際はどのような馬であったのだろうか。常識的に考えれば血の汗を流す馬が実際に存在したとは考えにくい。この「血の汗を流す」という部分に関してはいくつかの説が挙げられているものの結論は出ていない。ひとつは馬の毛色によって、流れた汗が血の色のように見えたというものである。これは実際にそう見えることがあるということから有力であるように思われる。もう一つの説として、血汗症という症状を起こす寄生虫によって実際に血の汗を流していたというものがある。この説は趨勢であるようだが、汗血馬が血汗症であったという証拠はなく、今となってはそれを知る術はない。他にも寄生虫によって表皮に滲んだ血液が汗と混じって見えたといったような説もあり、想像欲を掻き立てられる。「一日に千里を走る」という部分は間違いなく誇張であるにしても、寄生虫がついた馬が痛みに刺激されて通常より速く走るということはあるようだ。

伝説の名馬は今どこに
様々な学説が飛び交う汗血馬だが、現代には存在するのか。自分が調べた限りにおいては、現在フェルガナ盆地周辺ではあまり馬の飼育は盛んではないようで、この地がかつて名馬の里であったとされるのに対し、今では馬の価値もそこまで高くないのではないかと思われる。このあたりについては実際にウズベキスタンで馬の現状についての軽い調査をしてみたいものである。一方で、フェルガナ盆地とは異なる場所で、汗血馬の子孫とされる存在を見ることができる。主にトルクメニスタンで飼われている「アハルテケ」という種の馬がそれである。トルクメニスタンは現在でも馬の名産地として有名であり、アハルテケは同国の国章にも描かれている。この種は小柄であるが美しい体つきをしており、4152kmを84日で走破した記録を持つほど走りに長けている。ここで問題になるのはもしアハルテケを汗血馬の子孫とすると、大宛国の位置そのものがフェルガナ盆地よりもさらにトルクメニスタン側にあった可能性が出てくる点である(フェルガナとトルクメニスタンの間にはかなりの距離がある)。これは大宛国の位置がそもそも確定していないためであるが、このあたりは次回のブログの内容の布石とし、今回は汗血馬について述べたところまでで筆をおこうと思う。

文責:文科二類二年 藻谷

中央アジアにおけるロシア語教育

公開日:2011年8月11日

投稿者:uzstudent2011s

私は2005年の愛知万博で旧ソ連圏各国のパビリオンの係員(20代)にロシア語で話しかけてみたところ、全く通じなかったバルト三国、カフカス諸国とは対照的に、中央アジア諸国 係員は全員ロシア語が通じた。そのため、今でも熱心にロシア語を教育しているのかと思いきや必ずしもそうではないようである。

政府は、教育改革の中でも特にウズベク語化政策(80%がウズベク族)を推進している。学校教育では、ウズベク語に重心が移りつつあるが、都市部ではまだロシア語で授業を行う学校も存在する。大学では卒業論文等をロシア語での提出を認めない所も出現し、教育のウズベク語化が徐々に進んでいる。(ウズベキスタン)

独立後の10年間で初等・中等教育におけるカザフ語化が進み、カザフ語のみで教育を行う学校が増えている。
また、公立学校ではカザフ語が義務化されている。教授言語はカザフ語で行う学校、ロシア語で行う学校にわかれており、最近はカザフ語で行う学校が増えている。(カザフスタン)

当地には母国語であるトルクメン語の学校とロシア語の学校が存在しており、そのどちらかの語学が得意かによって選択することが出来る。ただ殆どの学校は母国語であるトルクメン語で授業を行っており、ソ連崩壊後トルクメニスタン建国15年を経過した現在、ロシア語の学校は少なくなってきている。(トルクメニスタン)

旧ソ連の教育カリキュラムが受け継がれている。教授言語は一般的にタジク語であるが、ロシア語も多数ある。年々、大学への進学率は高くなってきておりロシア語で授業を行う大学への人気が高まっている。(タジキスタン)

キルギスはソ連崩壊後いち早く旧ソ連型統治から市場経済化・民主化への脱却が行われた国であるが、統一された指導要領はなく、学校毎に教育内容が異なる。(キルギス)

(外務省:諸外国の学校制度 http://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/world_school/05europe/index05.html)

こうして見ると将来的にロシア語を話せない人が増えると考えられる。現在は中央アジアの指導者層同士は母国語並みに操れるロシア語でコミュニケーションをとれているが、将来的に共通の言語がなくなったら協力関係に支障をもたらすのではないかと危惧される。

(文:文科三類二年 濱中)

ソ連の歴史教科書における日本の戦後

公開日:2011年8月11日

投稿者:uzstudent2011s

本来はウズベキスタンの現在の歴史の教科書について書きたかったのだが、手に入らなかったため文科省内にある教育図書館所蔵の”Новейшая история для 10 класса”(10年生のための現代史)(1973)を参照した。

「日本」という題で4ページ半にわたる章がもうけられており、さらに「戦後の改革」「戦後の経済成長」「外交」「労働運動 」「日本国民の平和のための闘争」といった小見出しで分けられていた。

やはり社会主義的イデオロギー色が濃いことは否めない。中小企業の労働者が大企業に苦しめられていることや格差に関する記述が多く見られる。

「急速な工業の発展は科学技術革命だけでなく日本のプロレタリアートの残酷な搾取によって説明される。国家機関が巨大コンツェルンの繁栄に協力し、免税をしたり、利益になるような注文を割り当てたり、大規模に経済改革を変更したりして国が経済における重要な役目を果たしている。」

「増大する小作農の土地に対する闘争の影響のため政府は農地改革(1946〜1949)の導入を急いだ。地主には耕作地が3町残され、残りは国が買い取り農民に売却した。農地改革は小作人の数を減らし自作農を2倍に増やした。富裕な農民は顕著に財産をふやした。高い土地代のため多くの下流、中流階級の農民は土地を所有することはできなかった。」

基本的にどの資本主義国についても批判的に書かれている。しかしアメリカを絡めた批判が多いことが特徴的である。

「日本の民主化と非軍備化に関する連合国列強の決定にも関わらず、アメリカの占領政権は独占企業と地主と強く結びついた反動的な代表者からなる政権を形成した。その後、彼らは統治の指導者となり、現在は独占企業に支援を受けた自由民主党として政権を握っている。アメリカの支援のもと政府は以前の国家機構を維持し左翼を罰し労働運動を抑圧した。政府は政治力によって日本の独占企業の地位の復興を促し国内のアメリカの影響の案内人となった。」

「サンフランシスコ会議の後、自由民主党は陸海空軍設置に着手した。これは明らかに憲法に反している。(中略)アメリカ帝国主義は日本を軍備化することを選んだのである。」

今の日本の歴史の教科書や、参考として読んだ今のロシアの歴史の教科書とは、だいぶ趣きが異なるのは確かではある。しかし、かといってこの教科書に書かれていることが嘘八百だとは思わない。普通の教科書では切り捨てられがちな弱者に焦点を当てている点は特筆すべきであろう。ただ自国の政治、経済が腐っていることを棚に上げて批判している点は問題があるが‥。

(文:文科三類二年 濱中)

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