中央アジア散歩 2011年夏学期 全学自由研究ゼミナール

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レギスタン広場の歴史と建築

公開日:2011年8月30日

投稿者:uzstudent2011s

レギスタン広場はウズベキスタンの古都サマルカンドに位置する観光名所の一つである。名前はペルシャ語で「砂の場所」を意味する言葉であり、サマルカンドの歴史において中心的な存在であった。元々この地は商業地であったが、そこの様相を変えたのが15世紀に中央アジアを支配したスルタン、ウルグ・ベクである。

中央の広場を囲むのは3つのマドラサである。正面から見て左側に位置するのが1420年に建てられたウルグ・べク・マドラサ、それと向かい合うように右側にあるのが1636年に完成したシェル・ドル・マドラサ、そして中央奥には1660年にできたティリャー・コリー・モスクマドラサがある。これらのマドラサは200年以上に渡って別々に建てられたものだが、建設当初から計画されていたかのような景観を作り出している。これは「コシュ」と呼ばれる都市デザインの手法が取られているからである。「コシュ」とはウズベク語で「つがい」を意味し、レギスタン広場のシェル・ドル・マドラサのように、既存の建物とつがいになるよう向かい合って建てたりすることで整理された街並みにする方法である。

マドラサとは「学ぶ場所、学校」という意味で、9世紀以来各地で建てられたイスラム世界の教育機関である。教育は二つのコースに分かれていて、コーランの暗唱や解釈などを学ぶコースと学者を育成するためのコースがあった。

マドラサで教えられていた科目は主にアラブ語、タフスィール(コーラン解釈学)、シャリーア(イスラム法)、ハディース(預言者ムハンマドの言行録)、論理学、ムスリム史である。

マドラサはイスラムを広く伝える以外にも、孤児や貧しい子を教育するという使命を持っていた。また、中には女性を受け入れるものもあったという(無論、男女別学だが)。

レギスタン広場のマドラサを一つずつ紹介していく。最初に建てられたのが1417年から3年間かけて完成したウルグ・ベク・マドラサである。ティムール朝第四代君主ウルグ・ベクの命によって建設された。中庭にはモスク・講義室・寄宿舎があり、学生が生活していたフジュラが約50室存在する。ウルグ・ベクはこの他にも2つのマドラサの建設を命じたが、ウルグベク・マドラサが建築・教育機関の点において最も優れていた。17世紀までマドラサとして機能した後、一世紀以上は穀物倉庫の役割を担っていたが、20世紀前半にはまた教育機関として利用されるようになった。

次に建てられたのがウルグ・ベク・マドラサの「つがい」、シェル・ドル・マドラサである。シャイバニ朝君主ヤラングドゥシュ・バハテゥルの命により1619年から1636年にかけて建設された。形はウルグ・ベク・マドラサを模して設計されているが、君主の権力を誇示するため装飾が派手になっている。「シェル・ドル」は「獅子」という意味を持っており、イスラム建築には珍しく動物の絵が正面に描かれているのが特徴である。イスラム教では偶像崇拝が禁止されているため人物や動物画は基本的に描かれないが、シェル・ドル・マドラサには白い鹿を追う獅子と、その背景に顔のついた太陽が描かれている。

最後に、1646年着工、1660年完成のティリャー・コリー・マドラサが二つのマドラサの奥に建てられた。このマドラサは当時のサマルカンドの繁栄を示しており、「金で飾られたマドラサ」という名前の通り豪華な金の装飾が施されている。17世紀に損傷したビヒ・ハーヌム・モスクの代わりとして、メッカを向いたモスクを兼ね備えている。

文責:文科二類2年 末松

ウズベキスタンとマハッラ

公開日:2011年8月30日

投稿者:uzstudent2011s

中央アジア、その中でも実際に現地を訪れることになったウズベキスタンに関して調べていく中で私が興味を持ったのが「マハッラ」と呼ばれるものである。しかし、ウズベキスタンについての認知度がまだ低い日本において、この国に特徴的な制度であるマハッラというものを知っている人はそうはいないと思う。ウズベキスタンにおいて常に人々の中に存在してきたマハッラ、この記事ではマハッラとはどういうものかについて私なりに書いていこうと思う。

 

帝政ロシア時代、ソ連時代、ソ連崩壊後ではその位置づけなどが異なっているため、以下では伝統的なマハッラに関して述べようと思う。マハッラとは?それを簡単に言うと、ウズベキスタンにおけるオクソコルと呼ばれる長老を中心とした地縁共同体のことである。ここには日本における町内会の制度と類似するところも多くある(基本的には異なる)。例えば、日本の町内会において共同で葬式や祭りを行うところがあるように、ウズベキスタンでも結婚式や割礼、葬式・法事、宗教的儀礼は伝統的に同じマハッラ内の住民が協力しあい大規模に行われてきた。結婚式や葬式に関しても家族だけでは規模が大きすぎて執り行うことができないことから皆で手伝うというのが慣習のようである。但し、マハッラは非国家組織であることもあり、その活動はあくまでも自発的なもので、参加するしないは個人の自由ではある。実際、マハッラのアイデンティティをもたない都市部の人やウズベク人以外のロシア系民族などの活動への参加は消極的なことが多いようである。

マハッラの特徴の一つとして近隣住民との関係がある。日本の町内会の現状をあまり把握していないため比較は出来ないが、マハッラにおける住民同士のつながりは強く、ウズベク語に「家を選ぶのではなく、近所を選べ」、「遠い親戚より近所の方が良い」という諺があることからもわかる。この住民同士のつながりの形成にはガプ、モスク、グザル、チャイハネという4つのマハッラにおける共有空間が大きく関わっている。ガプというのはマハッラにおける特別な付き合いの形式であり、イスラム教の礼拝堂であるモスク、商店街などサービスの集中する場所であるグザル、そして日本の喫茶店に近いチャイハネでは集まる層などは異なるがどれにおいても人々が集まり世間話などをし一体感を高めることができ、住民がマハッラの一員としてアイデンティティを再認識する空間ができている。

もう一つ重要な特徴として、マハッラでは出来る限り皆で平等に負担し、解決していく精神が見られる。これがよく表れている仕組みが次に述べるハシャルという制度である。ハシャルとはマハッラ内における伝統的な助け合いの仕組みの一つで、この制度で同じマハッラ内に住む人々が互いに助け合って生活を成り立たせている。例えば、マハッラ内のどこかで家を建て直す時にはみなが集まって作業をし、その助けて貰った人は次にどこか他の家を建て直す際には手伝う必要があるといったところにハシャルは見うけられる。

 

マハッラにおけるこういった特徴を見ていくと、昔の日本の様子が想像され、例えばマハッラのグザルにおける世間話というのはかつての日本の井戸端会議に近いものであると考えられる。しかし、ウズベキスタンのこのような伝統も残念ながら日本が辿ってきたように都市化や欧米文化の流入などの理由により失われつつあるといわれているし、助け合いの精神など集団(全体)主義が伝統的であったマハッラで個人主義が見られているのは悲しいものがある。

欧米文化の流入が悪いとは一概には言えないが、ウズベキスタンにおけるマハッラの役割をどう定めていくべきか考えることは大事で、マハッラを通していかに住民の生活を充実させるなどの実質的なことだけではなく、伝統的なマハッラ内のつながりを維持することも必要であると思う。

 

参考文献:「マハッラの実像―中央アジア社会の伝統と変容」 ティムール・ダダバエフ 東京大学出版会

「「教育」する共同体」 河野明日香 九州大学出版会

(文責:理科二類二年 栗原)

サマルカンドとウズベキスタン観光

公開日:2011年8月30日

投稿者:uzstudent2011s

人が海外旅行の行く先を決めるとき、その決め手となるのは何であろうか。この疑問は私がウズベキスタンの観光産業について考えるうちに思ったことである。日本人観光客には近場の国(韓国や中国など)に加え、ヨーロッパ(フランス、ドイツなど)やリゾートが人気である。その理由は何なのであろうか。ウズベキスタンには豊かな観光資源があり、古来シルクロードの拠点として栄えてきた歴史をもつにも関わらず、なぜ日本での知名度は比較的低く、人気旅行先とならないのか。ここでは都市の美しさで引けを取らない、サマルカンドの紹介をする。サマルカンドへは、ウズベキスタンの首都タシケントから飛行機(約1時間)、鉄道(約3時間半)、バス(4~5時間)で行ける。

サマルカンドは歴史上シルクロードの中心都市として発展し続けてきた。紀元前4世紀に東方遠征をしたアレクサンドロス大王が「話に聞いていたとおりに美しい、いやそれ以上に美しい」と言ったというほど、歴史的に美しい町として有名であった。その担い手はソグド人であった。一時モンゴル軍の被害を受けるも、14世紀にはティムール帝国の都として繁栄し、今日も「青の都」、「東方の真珠」などと称されるほどに美しい。

・アミール・ティムール廟

ティムール帝国の始祖、ティムールと彼の息子たちの霊廟である。ドームの青タイルが特色であり、サマルカンドが「青の都」と称される一因である。

(料金:3USドル相当、撮影料金:2USドル相当、ビデオ5USドル相当)

・レギスタン広場

レギスタンとは砂地の意味である。正面と左右のメドレセ(神学校)がその景観をつくる。

(料金:8000スム、撮影料金:3000スム。ビデオ7000スム)

・ビビハニム・モスク

中央アジア最大のモスクである。これもまた青のドームがある。ティムールの命令によって造られた。

(料金:3USドル相当、撮影料金:2USドル相当、ビデオ5USドル相当)

・シヨブ・バザール

ビビハニム・モスクに隣接する大きな市場。イスラーム圏特有のバザール経済を体験できるかもしれない。サマルカンドはナンが有名であり、地元の人もお土産で買っていくほどであるらしい。

・シャーヒズィンダ廟群

ティウールゆかりの人の霊廟が並ぶ通りで、サマルカンドの聖地となっており、多くの人が巡礼に訪れる。ここでも青タイルが多く使われており、壁などには美しい装飾が施されている。

(料金:3000スム、撮影料金:1500スム~)

イスラームの都ということで、建築がこの町の美しさの大部分を担っている。それらの壁に施された緻密な模様や、ドームなどに使われている鮮やかな青は一見の価値があると思う。以上に紹介した有名な観光地以外にも、歴史的遺産や、博物館などがある。サマルカンドの歴史は古く、この都市だけのためにウズベキスタンに観光先として訪れる理由は十分にある。サマルカンド以外にも、ヒヴァ、ブハラなど世界遺産となっている都市や、世界史をやっていた人ならきいたことがあるだろうフェルガナもウズベキスタンにあるのである。

しかし、私も現にこの授業にふれるまで訪れようと思ったことはなく、日本人観光客は1万人以下と少ない。以下はあくまで意見であるが、理由のひとつには、ウズベキスタンという国の知名度が日本では圧倒的に低いことが挙げられるであろう。さらに日本国内での広報に改善点があるのではないか。「サマルカンド」という都市名をとウズベキスタンという国名にリンクさせることは重要であると思う。ツアーを組み、扱っている旅行会社も少ない。旅行会社が扱っていないとなると一般旅行者の目には泊まりにくい。旅行会社がツアーを組みにくい点はあるのか。日本で信用できるウズベキスタンの情報が非常に得にくいことは、調べている過程でぶつかった。しかし逆に考えると、開拓の余地があるということでもある。

観光地自体にはどのような課題があるか。上記に列記したことからもわかるように観光料金とは別に、撮影料金を徴収している。非効率的、かつ観光客への印象が悪くなってしまう。交通の便は良いとは言えないものの、悪くはないと思われる。国内の飛行機が全て首都タシケント発着で、他の都市間を結ぶ便がないことは移動時間や、快適さを重視する人にとっては不便である。しかし、都市間の移動は鉄道や、バスで可能である。都市内の移動は都市により異なるが、サマルカンド市内はバスがあり、市自体がそんなに大きくないため一日でまわることも可能である。

実際に訪れてみて、観光地がどのようであるか、日本人観光客を呼び込むために何が足りないか、現地の大学生との交流を通じて私たちが事前に調べ考えていたこととの相違を明らかにしたいと思う。

 

文:文科二類二年 高川めぐ

高麗人と韓国政府

公開日:2011年8月29日

投稿者:uzstudent2011s

1.高麗人の歴史的背景と現状

長い間韓国との交流が絶たれていた高麗人に対して韓国政府が法律を制定するなど支援し始めた背景には、ソ連の解体とCISの諸国が独立がある。CISの諸国が独立しにつれて、数年間各国がロシア語でなく、自分の国の言語である固有言語を勧めるなど民族中心主義政策を実してきた。それによってロシア語しかしゃべれない高麗人、CISの諸国では異邦人である高麗人のなかでは沿海州に移住している動きが見えている。しかし、移住の家庭で国籍を証明するような書類を紛失してしまったり、国籍取得の機会を逃してしまった一部の高麗人は他の地域に居住している高麗人に比べて経済的に、社会的に困っている。現在、約5万人に達する高麗人が無国籍または法的な地位不安定の問題で教育や医療恵沢など基本的人権を享受できない状態におかれていると報告されている。このように、現代に入って自分の居住国で安定した生活が維持できない高麗人が増えるにつれて、韓国政府は高麗人の滞在資格取得を支援し始めた。そして、2010年5月に「高麗人同胞合法的滞留資格取得および定着支援のための特別法を制定し、今年の11月から実施する予定である。

2.無国籍高麗人への支援政策

無国籍高麗人のなかには、自分の元の所属国が発行したパスポートは持っているが、期限が切れたり、パスポートを失ってしまったり、またはソ連時代のパスポートを新しいパスポートに変えられなかったため、不法滞留者として生活している場合が多い。ロシアや元の所属国で申し込むと発行してもらえる場合もばるが、その手続きが非常に複雑であり、かつ、費用の時間もかかるためあきらめてしまうのである。中央アジアの国は海外移住を告げなかったことに対して非常に厳しい政策を採っているため、無国籍高麗人は有効なパスポートやビザがなく、雇用、医療、教育などの分野で基本的な恵沢をもらえなく、いつも追放の恐れのなかで最貧困層として生きていくしかない。

このような高麗人の問題に対して、ウクライナはうまく対処している成功例のひとつである。韓国大使館は内務部・労働部・地方主政府などが全部協力し合って個人とのかかわりを持ち、高麗人が合法の滞留資格が取得できるように努めてきた。ウクライナ政府も高麗人の問題解決に協力している。ウクライナ政府は一定の罰金を払えば短期滞留資格は取得できるようにし、雇用契約書を提示すると動労許可まで発行することにした。また、パスポート発見の手続きも簡単にした結果、ウクライナで新しく国籍を取得した高麗人は約150人、永住権を取得した高麗人は200人など、合法の滞留資格を持ってる人の数が増えている。

しかし、合法の滞留資格を続けて持っているためには労働許可資格を続けて持っていることが必要であり、そのためには60ドルに相当する税金を払わなければならない。これは所得が低い人々に対してはかなりの負担であり、より根本的な解決方法が求められているところである。この問題の解決のため、韓国大使館は微小金融と農業教育を実施する予定である。要するに、滞留資格の合法化のため自立する維持がある高麗人に対しては農業教育を実施し、実践計画も提出する場合、低利子で資金も提供することを計画している。

残念なことに、今のところ韓国政府と高麗人はそこまで深い関係は持っていないと考えられる。高麗人も第1世代や第2世代くらいだけが韓国語がしゃべれたり、韓国に愛着を持っている程度で、彼ら自身も韓国人という意識が薄いが、元は一緒である高麗人により関心を持って支援していきたいものだと思う。

(文科一類二年 キム・ヘジン)

中央アジアと高麗人

公開日:2011年8月29日

投稿者:uzstudent2011s

1.高麗人の歴史と現在

現在、海外に約55万人の高麗人がいると報告されており、その大体が中央アジアの国々に住んでいる。ここで高麗人とはどのような人のことであるか。高麗人とは、旧ソビエト連邦の領内に住み、現在はCISの国籍を持つ朝鮮民族の人々のことであり、もとの居住地は朝鮮と境を接した沿海州である。もともと沿海州に住んでいた高麗人は1930年代後半から第2次世界大戦にかけて中央アジアに追放され、現在の主な居住地はウズベキスタンとカザフスタンである。

それでは、高麗人はなぜ沿海州から何千キロも離れた中央アジアに行ったのだろうか。そこには高麗人の強制移住の歴史がある。19世紀以降、李氏朝鮮北部から国境を越えて沿海州に定着しながら高麗人集団が形成された。その後、1910年に日本帝国と大韓帝国が合併され、1924年にはロシアでソビエト連邦が成立された。日本とソ連は対立関係におり、沿海州に定着していた人々は日本と関係がないにもかかわらず、スターリンの政策によって1937年中央アジアに強制移住させられることになってしまった。

高麗人の強制移住は非常に厳しいものであった。18万人の人が40日間6000kmに達する距離を移住させられたが、この遠い距離を高麗人は貨物列車に荷物のように乗せられて移住させられた。貨物列車であっただけに、列車にはトイレも、お水もなく移住過程で多くの人が病気で亡くなってしまった。また、トイレがなかったため列車が止まったときに線路におりて用便をみる人もいたが、列車が出発するときそれに気がつかず、線路に挟まって死んでしまった人もいた。このように非常に劣悪な環境を生き残った高麗人は人が住めなくて離れた土地に降りさせられた。そこには農場も、家もなにもなかったが、高麗人はここでまた頑張ってファン・マングム農場やキム・ビョンヒァ農場など農業に成功した例がたくさんある。

このように何もない状況で成功してきた高麗人はその能力や努力が認められ、社会での地位も高くなり、自ら中央アジアを自分の第2祖国に思うようになった。しかし1991年ソ連解体以降、民族政策で生活基盤が崩壊し、沿海州に再移住して現在約5万人が沿海州に住んでいる。

2.高麗人社会とネットワーク

高麗人は自分たちのネットワークはある程度持っているが、まだいろいろな問題が残っている。まず、協会の代表性および組織間の葛藤が依然と存在する。全露高麗人連合会、民族文化自治会は近年韓国からの支援をもらっているが、全露高麗人連合会に傾いている傾向がある。韓国の支援が葛藤の原因となってはいけないため、これから体系的な研究が必要だと思われる。2番目の問題として、主要大都市が情報を独占しているという問題もある。韓国大使館が設置されている大都市ではないと、支援情報が手に入りにくいため、大使館を通じなくても情報が得られるよう高麗人協会の活用が必要である。3番目の問題は言語の問題である。高麗人にとって韓国語の重要度は第3外国語程度であって、まずは現地語、つぎは英語またはロシア語であって、その次が韓国語である。韓国語を勉強している人は中央アジアに進出している韓国企業で働きたいと思う人が選択的にやっているだけで、今のところ韓国語は高麗人にとってそれほとインセンティブのある言語ではない。ただ、将来韓国人と高麗人の交流がより活発になることが望ましいと考えると、韓国語の教育はネットワーク形成において重要な問題であろう。最後に整っていないインターネット環境の問題がある。若者のなかではインターネットの使用率が増えているが、高麗人とのネットワークのため使っているわけでなく、全体としてみたコンピュータの普及率はそれほど高くないため、まだいろいろな問題がある。また、ここでもまた言語が問題となって、韓国語とロシア語の両方が必要という問題がある。

このようにまださまざまな問題があるが、韓国と高麗人をつなぐにはネットワークの役割が重要になるため、より効率的なネットワークを構築するための努力が必要だろう。その具体的な方案としては、人的ネットワークを作ってシンクタンクを構築し、必要な人材を勧告と現地の適材適所に配置すること、韓国関連の多様なプログラムを企画して文化院や教育院の機能を強し、韓国訪問実現すること、インターネットの利点を十分生かして長いスパンで有効な手段に作ることなどが考えられる。

(文科一類二年 キム・ヘジン)

証券所取引システムと経済進出

公開日:2011年8月29日

投稿者:uzstudent2011s

2011年8月29日の日経新聞からの抜粋となるが、韓国の株式市場を運営する韓国証券取引所(KRX)がウズベキスタンに証券取引所システムを提供する契約に基本合意した。中央アジアはこれから経済成長が見込まれており、ロシアは旧ソ連圏への金融面への影響力保持を目指してカザフスタンなどにシステムの売り込みを行っている。韓国ロシアは中央アジアの国に証券売買システムの供給をきっかけに自国の金融機関の進出や経済的な影響力の拡大を行うという思惑を持っているようだが、元々ロシア韓国共にウズベキスタンとの経済面での関係は深い。例えばロシアに関してはウズベキスタンの第一の輸出輸入相手国で、輸出に関しては全体の17.2%、輸入に関しては全体の24.8%を占めている。韓国に関しても、ウズベキスタンの輸入相手国では中国に次いで第三位に入っており、全体の12.9%を占めている。ロシアは旧ソ連圏という繋がり、中国はウズベキスタンと地続きになっているから貿易量が多くても不思議ではないが、韓国がここまでウズベキスタンとの貿易を活発に行えている理由は何なのか。実は韓国はもともと官民一体となってのウズベキスタン進出が行われており、進出分野も資源エネルギーに加えて、エレクトロニクス・繊維・自動車・建設・通信と多様で、中小企業を含めて200以上の企業がウズベキスタンに進出しているようだ。一方我が国日本の進出状況はどのようになっているのか。政府の行動に関しては、

2008年に日ウ投資環境整備ネットワークが開かれる。2011年に海江田万里氏がウズベキスタンのレアメタル開発に向けて協調することを決めたなど、かなり遅めの動きである上に民間企業はほとんど進出していない。実際に進出している企業は16社にすぎず、貿易に関しても輸出では2008年7600万ドル、2010年7700万ドルと実質的に伸び悩んでいることが分かる。ちなみに、ウズベキスタン全体の輸入総額は71億ドルと日本からの輸入は全体の1%にしか過ぎない。日本は韓国などの国に比べて、官民一体の行動が元々希薄であるように思える。近年盛んになっている途上国へのインフラ輸出に関しても民間企業の進出が先行し、官民一体となっての動きが見られるようになったのは韓国などに比べて非常に遅い。最近でもトルコへの原発輸出に関して管元首相の発言がトルコ側の不信を招き、結果として交渉の遅れをもたらし欧州勢の売り込みが発生した。官民一体となっての動きという点では韓国に見習うところも多いのではないだろうか。

しかし日本はODAなどの経済協力では2004年から2008年にかけて2006年を除いて金額では常に一位である。支援などをウズベキスタンとの経済関係の発展にもう少し活かすことができるのではないだろうか。自分自身も民間におけるウズベキスタンと日本の交流の発展の一助となるべく今回の訪問では頑張りたいと思う。

参考文献:JETRO ホームページ(htp://www.jetro.go.jp/world/russia_cis/uz/basic_01/#block6)

外務省ホームページ(http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shiryo/kuni/10_databook/pdfs/03-01.pdf

2011 Data Book of The WORLD(二宮書店出版)

文責:二年文科Ⅱ類八木雄介

バザール経済

公開日:2011年8月29日

投稿者:uzstudent2011s

経済体制と言うと常識的に市場経済(資本主義)と計画経済(社会主義)の二種類に区分できる。バザール経済のおもしろい点は、これはどちらにも属さないタイプの経済であることだ。売り手の利益の最大化が究極目的ではない点で市場経済とは異なり、ある地域に居住する人々が依存し合っている経済と言う点で、上からの(公的な)経済である計画経済と異なる。商業が活発であったイスラーム社会に根付いたものなのである。

バザールとはペルシャ語で伝統的なイスラームの市場(いちば)を指す単語である。(アラビア語ではスークという。)西・中央アジアのオアシス都市の、周辺地域の産物の集積地として発達した。このイスラームの伝統的な市場は多数の小路から成り、単に経済的な機能を持っただけではなく、店舗の他に、モスクや学校、茶屋なども存在した。地域に基づいた有機的なつながりであり、従来から自律的であった。これゆえに、近代化によっても容易に解体されず、現在も残っているそうである。

では、バザール経済とはどのようなものなのであろうか。まず商品の値段が決まっていない。たとえ値札がついていてもあてにならない。この経済の特徴は、交渉によって商品の値段がきまることだ。

この市場では情報が非常に重要である。バザールに出回る商品はそれぞれに個性があり、その個別の商品についての情報を確実に入手することが良い買い物をするために求められることなのである。市場では人と情報が入り混じっているため、広範に情報を集めるのは得策ではなく、安定した取引先から深い情報を得るようにするのが有効であるとされる。取引先としても、自分にとって誠実な客を信頼によって確保するのである。商品の価格は、商品の質だけではなく、相手との関係によって決まってくるのである。相手との信頼関係の度合い、取引実績、相手がどれだけ有用な情報を持っているか、などである。情報が真実であるかどうかは自己責任によって判断するわけだが、ここにはイスラーム的倫理観が根底にあるといえる。

地域に密着した経済ということで、公的にその実態を把握することは難しいようである。近代以降、国家単位で経済力がはかられるようにもなったが、バザールには国家に測りかねる側面があり、その意味でインフォーマル・セクターとして区分される部分を含む。バザールはイスラームに根付いた有機的なつながりを含み、殊にイランにおいては寄付を管理していたイスラーム法学者のウラマーはそれを公共性の高いことに運用し、商人が財政力により地域の経済を支えることで、国家に対抗する力を有した。1970年代の反体制運動ではこのネットワークが重要な役割を果たしたとされる点が興味深い。ウズベキスタンにおいては旧ソ連の計画経済の欠陥による物の不足はこのインフォーマル・セクターを活性化させる側面を持っていたという指摘もある。このような政府が把握できない経済活動に課税できないという点が課題として挙げられる。もっとも、地域共同体を行政に組み込むことなどがされているようだが。

「バザール経済」。私がこの言葉を知ったのはこの中央アジアゼミの初回である。経済というとどうしてもミクロ、マクロ、効用関数・・・などなど固いイメージが浮かんできてしまい敬遠しがちな私にとって、この文化的な側面を多分に持つ「経済」は親しみやすく思えた。相互の利益のためとはいえ、商売が信頼によって成り立っているのは弊害があるにせよ素敵なことではないかと思う。今もその制度が残っているのかはわからないが、信頼がその場で清算される現金支払いを嫌い、返済方式が好まれることがあるそうだ。映画などで見る日本にもある「ツケ」の文化と似ているのだろうか。経済の近代化、現代化が進むにつれて、こういった伝統的な経済はどのように変化していくのか。世界中の他の都市がそうであったように、全てが規格化され、画一的な経済に組み込まれてしまうのは少し悲しい気がする。

 

参考:『「見えざるユダヤ人」とバザール経済』 堀内正樹

『ウズベキスタンの慣習経済』 樋渡雅人

(文責:文科二類二年 高川)

 

中央アジア・ウズベキスタンの伝統音楽・楽器

公開日:2011年8月28日

投稿者:uzstudent2011s

中央アジア…というと、独特の音楽、きらびやかな衣装、というのが個人的な印象である。そこで、ウズベキスタンの人々の民俗、生活を知る端緒として、中央アジア、ウズベキスタンの民族音楽、楽器について調べた。

▼中央アジアの民衆音楽、楽器

中央アジアの伝統音楽は、各民族の十九世紀までの生活形態によって大別することができる。遊牧民(カザフ人や、クルグス人)の音楽と東西トルキスタンの定住農耕民の音楽である。中央アジアでは、これらの伝統音楽を民衆音楽(ロシア語:narodnaia muzyka)と呼ぶことが多い。

遊牧民の音楽はシンプルな弦楽器による独奏や弾き語りである。(例外として、トルクメンは弦楽器と弓奏楽器の小合奏が一般的である。)現在では、主な弦楽器は民族ごとに規格化されているが、元来は多様な地方様式を持っていた。そのため、中央アジア各国に伝わる代表的な弦楽器は似通った特徴を持っている。また、住居を移動させる遊牧民にとって、軽くて移動に便利なものが好まれたため、弦楽器に限らず、民族楽器には軽くて持ち運びやすいという共通点がある。中央アジアの民族楽器は、現代の楽器の原型となるものが多くあるが、古くから東西アジアの交流の中継地となっていたため、これら民族楽器の特徴は一部の東西アジアの伝統楽器にも伺える。たとえば、日本の「琵琶」は、外見だけでなく、弦の仕組みも中央アジアの弦楽器と似ているそうだ。

かつて、文字を待たない遊牧民は、弦楽器の独奏・引き語りによって、口承文芸を後世に伝えていた。カザフ、クルグスには、キュイという器楽独奏のジャンルがあり、各キュイには付随する伝説が伝わっている。かつての演奏者はキュイの演奏に先立って伝説を聴衆に語ったそうである。(歴史や習俗、信仰、世界観などが凝縮されている口承文芸は、人々にとって娯楽であるとともに、自らのアイデンティティを強める重要な存在であった。しかし、現在では、各国に数十から数百の語り手が活躍するばかりになっている。)

定住農耕民の音楽の代表的なものは、マカームという形式の音楽である。これは、マカームという一定の旋法とリズム型に基づいて演奏される組曲で、西アジア全域にも共通して伝わる。マカーム音楽にも地方様式があり、現在にはブハラ、、ホラズム、フェルガナのマカームが伝えられている。固定的な要素と即興的な要素を併せ持つのが特徴的である。マカームで用いられる楽器は非常に豊富で、独奏と斉奏を重視する。

▼ウズベキスタンの民衆音楽、楽器

ウズベキスタンのお祭り、割礼、結婚式などお祝い事には、伝統音楽と、そして舞踏がつきものである。演奏に用いられる代表的な楽器は、スルナイという管楽器、タンブール、ギジャクなどの弦鳴楽器、ドイラという打楽器、ナイという横笛である。

スルナイ:杏の木やクワの木から作られる。吹き方、形ともオーボエに非常に良く似ている。

タンブール:洋ナシ型あるいは半球型のリュート属撥弦楽器

ギジャク:四本の弦を、弓を用いて演奏する捺弦楽器

ドイラ:タンバリンに似ている。ドイラと歌のみで女性が踊る伝統舞踊の形式がさまざまにある。

ナイ:竹製や木製の横笛。音は尺八に似ている。

ウズベキスタンの民族舞踏は、何度も高速で回転する胡旋舞である。胡旋舞は女性の踊りで、誘惑の踊りであると共に自然や刺繍の様子などを表した踊りである。それぞれの動きには意味があり、肩を上下に動かしたり、首や手の動き、体の反りなどで表現する。

ホルズム・ブハラ・フェルガナ地方の踊りが有名である。

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先日、フィールドワークの一環として、ゼミ生と都内の某イラン料理店へウズベキスタン料理を体験に行った。幸運にも、ダンスショーが行われる日で、中央アジアの伝統舞踏も体験することができた。胡旋舞と知っていたし、ネット上の動画で見たこともあったので、どんなものだろう、と軽い気持ちで期待していたが、実物は想像以上に躍動的で魅惑的な踊りであった。とにかく回る回る回る回る、、、それに、速い。私は思わず、お稽古の苦労を想像してしまった。(踊り子はおそらくすべて日本人であった。)首、腰、腕、手先の動きは、とても斬新で、神秘的に見えた。踊り子たちは始終笑顔を絶やさなかったため、どこか妖艶な雰囲気さえ感じた。途中、お客さんがドイラと思われる楽器で拍子をとり、それにあわせて踊り子が上体を反り返らせる、という踊りもあった。クライマックスには、踊り子の誘導でわたしたちゼミ生やほかのお客さんも踊りに参加した。踊り子の見よう見まねでリズムにあわせて踊っていると、私を含めみんなが楽しそうで、店内が一体化しているような心地がした。こんな結婚式やお祝い事は格別にすばらしいに違いない、と思えて、ウズベキスタンに行くのが楽しみになった。おそらく、本場の舞踏はさらに迫力があって、メッセージ性も高いのだろう。ウズベキスタンの伝統舞踏を目に焼き付けて(できるなら、すこしでも体にしみこませて)きたい。

文責:文科二類一年 藤沢

なぜ観光なのか?

公開日:2011年8月28日

投稿者:uzstudent2011s

今日はなぜ僕がウズベキスタンの観光について興味を持ったのか。

また、何を目標にウズベキスタンに行くかについて書きます。

そもそも最初に経済班でウズベキスタンやそのほかの中央アジアの国々の統計データについて調べていた際に、観光収入というデータを発見し、サマルカンドなどの歴史的に有名な都市を始めとした豊かな観光資源があるのに他の国々に比べてあまり観光収入が大きくないことに着目したからです。

ウズベキスタン:観光客107万人、観光収入6400万ドル

カザフスタン:観光客127万人、観光収入11億ドル

キルギス:観光客244万人、観光収入5.7億ドル

トルクメニスタン:観光客8000人、観光収入1.9億ドル

タジキスタン:観光客4000人、観光収入2400万ドル(2011 Data Book of The WORLD 二宮書店出版より引用)

五ハン国における観光に関するデータの比較ですが、ウズベキスタンの観光収入は五ハン国の中で明らかに低い(下から二番目)うえに、順位が一つ上のトルクメニスタンの約三分の一ほどしか収入が無いです。

観光資源については負けていることはもちろん無く、世界遺産の登録件数を比較してみても、ウズベキスタン:文化遺産が4個、カザフスタン:文化遺産が2個、自然遺産が1個、キルギス:文化遺産が1個、トルクメニスタン:文化遺産が3個、タジキスタン:文化遺産が1個

となっています。

また、もう一つの理由として日本でも国の経済政策として観光という分野が着目されるようになったことがあります。2009年の鳩山内閣では観光が経済成長分野の柱に位置され、観光立国推進基本法、観光立国推進基本計画によって観光立国の実現が目指されています。観光の形態自体も高度な医療を目的としたメディカルツーリズムなど多様化が進んでおり、非常に興味深い分野となっています。

残念ながら日本の人たちでウズベキスタンに行ったことがあるという方にはほとんどお会いすることがありませんが(実際に日本人のウズベキスタン渡航者は年一万人以下)、SNS上でウズベキスタンに行ったことがある何名かの方々に、ウズベキスタンに行った際の不便だった点・日本人があまりウズベキスタンに行かない原因となっているものは何かとアンケートを実施したところ、不便だった点は公共交通機関や一部施設で写真撮影が禁止されていること、宿泊毎に滞在者登録が必要なこと、悪質な警官がいるなどが挙げられていました。日本人があまりウズベキスタンに行かない原因に関してはほとんどの人が一致して①ウズベキスタンそのものを知らない人が多い②ウズベキスタンと聞くと、アフガニスタンなどを連想し非常に治安が悪そうに感じるという二つの原因を挙げていました。

そこで、僕が今回ウズベキスタンに行く際の個人的な目標として①日本とウズベキスタン双方でお互いの国に観光する人が増えるにはどうしたらよいかについてしっかり考えること②若者である自分の目線から見て日本人の若者が気に入りそうなウズベキスタンの魅力について見つけてくることの二つを設定しました。

現地で深い知識を得るために出発直前まで、読書などを通して観光関連の知識をさらに身につけていきたいと思います。

文責:文科Ⅱ類八木雄介

ウズベキスタンの交通

公開日:2011年8月28日

投稿者:uzstudent2011s

‘ウズベキスタン’と聞いて、明確なイメージを持てる日本人は少ないのではないかと思う。友人や家族などと話していても、「そんなところに行っても大丈夫なの?」とか、「ウズベキスタンって何があるの?」とか、そういったやりとりは数多くあった。実は、私もはじめは同様に、’ウズベキスタン’といえば、高校世界史で習ったように、’文明の交差点’だとか、CISの一員といった漠然としたイメージしか持っていなかった。自分にとって未知の領域に踏み込む、そんな好奇心も働いて、当ゼミを履修するに至った。

私は、’経済班’の一員として、ウズベキスタンの観光産業を中心に調査を進めてきた。その調査の過程においては、様々な困難がつきまとった。例えば、日本語の文献では十分な情報が得られないこと、場合によってはロシア語等でないと情報が見られないということ、あるいは、国の体質として、統計等の情報が十分には公開されていないことなどが挙げられる。もちろん、私の力が及ばない部分が多いこともその大きな一因として挙げられるが、以下に、微力ながら、交通についての簡単なまとめを記す。このとき、班の方針として、’日本からの観光客を呼び込む’というテーマがあるため、そこにも触れながら話を進める。

ウズベキスタンの主な観光地は、首都のタシュケントや世界遺産の存在するヒヴァ、ブハラ、シャフリサブス、サマルカンドである。それらの都市の位置関係は下図のようになる。衛生写真からも分かるように、これらの点在するオアシス都市以外には広大な砂漠が広がっている。

 

 

 

 

 

 

(Google Earthより)

 

ウズベキスタンにおいては、これらの都市をつなぐ交通手段としては、主に、鉄道、バス(タクシー)、航空機が挙げられる。以下、それぞれを個別に見ていく。

・鉄道

 

 

 

 

 

 

 

(OrexCA.com より)

 

上図がウズベキスタンにおける鉄道網である。先の衛生写真と見比べて分かるように、点在するオアシス都市を通るように敷かれている。オアシス都市をつなぐものとしては、’Registan’,’Sharq’,’Sanaf’といった高速鉄道が走っており、例えば、タシュケント-サマルカンド間を3時間半ほどで、タシュケント-ブハラ間を6時間半ほどで結んでいる。料金は2つの席種に分かれており、それぞれの便において、25,000スムと15,000スム、22,000スムと34,000スムとなっている(1円≒22スム)。

・バス(タクシー)

 

 

 

 

 

 

 

(国土交通省ホームページより)

 

上図がウズベキスタンにおける主な幹線道路である。これも鉄道網と同様に、オアシス都市間をつなぐ大動脈となっている。残念ながら、バスやタクシーについてはなかなか有力な情報源を見つけることができなかったため、主に個人ブログや口コミを参考に情報を収集した。それによると、タシュケント-サマルカンド間は定期バスが走っており、十分に快適でかつ鉄道を利用するよりも割安で済む(7米ドルほど)ということ、サマルカンド以西については、乗合タクシーを利用する場合が多いということなどが分かった。また、交通費は交渉次第で変動する可能性が大いにあり、その価格はドルベースで決められることが多いという。

・航空機

 

 

 

 

 

 

 

(Uzbekistan airway ホームページより)

 

上図がウズベキスタン航空の国内線の就航路である。基本的に、首都タシュケントがハブ空港としての役割を果たしており、主要都市へは一日で複数便の定期便がある。タシュケント-ウルゲンチ間など、鉄道やバス・タクシー等の利用では時間的な負担が大きくなってしまう移動の際によく使われる。一方、価格は割高となり、例えば、タシュケント-ブハラ間は1時間半前後で移動できるが、71,000スムほどの金額となる。

 

以上、3つの交通手段について見てきたが、料金や時間などについて一長一短があるという印象が残った。しかしながら、それぞれの快適さ、利便性などは実際に利用しない限りは妥当な評価を下すことはできないと思うので、現地に行った際に、自分自身で体験したいと思う。

 

文:文科二類2年 田村 悠

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